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3月に読み終えた本

ふと、この「n月に読み終えた本」シリーズ、いつからやってたんだっけかと思って見てみたら、ちょうど今回で24本目、つまり丸2年だった。何冊ぐらい読んだのか数えようかとも思ったけど、めんどくさいのと、最近はまあ読んでるときにおもしろければいいかあみたいな気持ちになっているので、気にせずやっていこうと思う。
とはいえ、月1、2冊しか読めなかったら落ち込むのだろうな。
見出し画像は道路に落ちていたTシャツです。撮影後に歩道にかけておきました。

三浦哲哉『LAフード・ダイアリー』(講談社)

著者は映画研究者なのだが、食に対する造詣が深く(「造詣が深い」というよりも「食が好き」という感じかもしれない)、これ以前に『食べたくなる本』(みすず書房)という「料理本批評」の本を書いている。この本が非常におもしろくて、料理本とかその著者の料理人・料理研究家を「批評」(文芸批評というときの「批評」と捉えてもらってよい)するのがとても印象に残った。
そんな著者がロサンゼルスにサバティカルで滞在した際の、食をめぐる記録・論考がこの本である。LAの有名店に赴いた感想のようなものだけに限らず、ファストフードやスーパーマーケットの違い、家庭で作る料理の話まで、様々なレイヤーの食の話が出てくる。その中から浮かび上がってくるのが、LAの食が、「多様性」と、それを育む「画一性」という二律背反から成り立っているのだという話で、興味深かった。リベラルなLA、多様性を尊ぶLAも、近代的インフラがもたらす画一性からその多様性を花咲かせてきたという議論は、月並みな画一性批判、あるいは多様性批判に再考を促す。そして多様性も、様々な国や地域の料理を積極的に享受できる(ただし、金があるならば)という意味での豊かさがもたらすものもありつつ、それらはLAのエスニックタウンというある意味では「閉鎖的な」ところから生まれているという視点も、LAの歴史的社会的な成り立ちを考えるとなるほどと思う。
単なる美食録ではなく、ファストフードやインスタント食品を好んだ自身の記憶を手がかりにしながら、LAの食をその「記憶の襞」から解釈していくのはおもしろかった(11章)。それは、僕自身にもそういう食の記憶があるからだろうと思う。そんな意味で、この本もやはり「食べたくなる本」だなと思った。


蘆田裕史『言葉と衣服』(アダチプレス)

この本は「ファッション」の批評とか哲学の本ではなく、「ファッション」のや「ファッションデザイン」の「批評」がどのような言葉で書かれ、語られているのかを確認し、そしてそれを定義していくのを目標としている。
「ファッション」や「スタイル」のような自明のようでいて実際は曖昧に使われがちな言葉、あるいは「モダニズム」や「アヴァンギャルド」のような他の美術などの領域から持ってきて使われている言葉、はては「衣服」とは何かというファッションにとっての根源的な言葉、そういった言葉たちがファッション批評やファッションを語る言説においていかに使われているかを確認し、定義していく。そういう定義が必要とされるのは、ファッション・スタディーズという領域がとくに日本では積極的に受容されていないという著者の問題意識もあるし、ファッション(業界)が常に「新しさ」を見せる必要がある「ビジネス」であることも一因なのだろう。
ファッション論というとたとえば鷲田清一が有名で、本書でも大きく取り上げられているが、そういう本で取り上げられるのはコム・デ・ギャルソンとかのハイブランドであることが多いので、哲学と合わさることでなんだか高尚だなという気がしてしまう。ファッション・スタディーズという観点から見るならば、そういうファッションデザイン以外にも見るべき観点がたくさんあるのだろうと思う。この本では言葉の定義をしながら実際のブランドの戦略が分析されていたりしたが、たしかにおもしろいしそんなブランドがあるのねという知見があった。自分が知らないだけな気がするが、こういうのを他にも読んでみたいなと思う。


宮澤伊織『裏世界ピクニック6 Tは寺生まれのT』(ハヤカワ文庫JA)

この前5巻出たなと思ったらもう6巻。アニメ効果だろうか。
今回は一冊全部同じ話で、作者はあとがきで「劇場版」と言っていた。おもしろいけど終わらんぞと思っていたら全部一気に読んでしまって、翌朝寝坊した。
前巻は主人公の空魚と相棒の鳥子の関係にとってきわめて重要な章があったが、それを踏まえて、空魚の記憶喪失からはじまる。関係が暴力的に(いっとき)壊れることで、それがいかに深まっていたのかというのが垣間見れるのがおもしろい。それらは鳥子以外のキャラクターでも同様で、準メインキャラ(小桜とか茜理)もじっくり書かれていたのが良かった。
この巻の小桜はとても良くて、いつもはめんどくさがりながら保護者ポジにいるが、今回はけっこう踏み込んで関わっていて、しかしポンコツなところの塩梅もよく、好感度が上がった(もとから好きだけど)。前巻からの新キャラの霞の足を拭くところとか、細かく優しいところが良かった。そしてしっかり日高里菜さんの声で再生された。
自分は怖い話は基本苦手なのだが、このシリーズは読める。というのはもちろん、怖い話(実話怪談)を調べる人たちの様子を読んでいるという、一枚間を挟んでいるところから来ているのだが、その小説の書き方が「怖いもの見たさ」という感情をちょうどいい具合にくすぐっているからなのだと思う。しっかりゾクッときつつも、空魚と鳥子の様子にもニヤニヤする。そのバランスがちょうどいい。


田上孝一『はじめての動物倫理学』(集英社新書)

動物倫理学という倫理学の一分野について、なんとなくピーター・シンガーの名前を知っていたりで聞いたことはあったのだが、新書で読めるのはすごいなあと思って買って読んでみた。
動物倫理学というのは動物を権利の主体として見るということが何より重要なことと考える。動物にも主体としての権利があり、人間が動物に対して行っているふるまい、たとえばペットとして飼うとか、食料として食べるだとか、動物実験するだとか、そういうものはすべて動物に対する権利の侵害であるとみなす。興味深いのは、このような考え方が、人間中心主義に対する批判だったり、動物の研究の進展だったり、あるいは環境問題が関わってきたりと、さまざまな分野からの議論が重なったところからその帰結として出てくるというところだ。現代の大規模化した畜産が完全な「動物虐待」と言えるような環境で行われていることであったり、それ自体もエコではないということも、なかなか知り得ないことで驚く。動物を権利の主体と見るならば、人間による動物の「客体化」というのは凄まじい、ということが知れるというのは本書を読んで得られる知見かなと思う(この「動物」に入る言葉は、かつては、人間の「マイノリティ」だったと言っても過言ではない)。
自分が例えばヴィーガンになったりということがあるかといわれると、そうはならないと思うが、しかしヴィーガンの人が何を問題としているのかということは少しは理解できたのかなあとも思う。動物倫理学は、哲学とか倫理学が、究極の、エッジな部分を考えていった結果の一つのようなところがあるけれども、突き詰めて考えたエッセンスから、権利とか多様性とかいうものの理解が深まることがあるなあと思う。


コルソン・ホワイトヘッド『地下鉄道』(ハヤカワepi文庫)

この本は19世紀の前半の、黒人奴隷制がまだ存在するアメリカを舞台にしている。ある農園から北部へ逃亡する少女が主人公である。
「地下鉄道」というのは、黒人奴隷の逃亡を助ける秘密組織のようなものの符牒だったそうだが、作者はこの言葉を文字通りに、すなわち黒人逃亡の組織が鉄道を駆使して自由州に向けて黒人を逃がす、という設定に変えた。つまりはこれはフィクションである。こんなことをわざわざ書くのは、自分自身がその判断ができるほどの知識がないことを恥じてのものである。
この作品で書かれる黒人に対する扱いは、主人公コーラが逃げていく先々でグラデーションがある。最初の農園では肉体的にも精神的にも本物の地獄として書かれる。最初の逃亡先のサウス・カロライナでは、肉体的な苦痛は少ないものの社会的な扱いは極めて差別的である。他の逃亡先では、一見慈愛に満ちた対応をしてくれる人も、その人となりを描く別の章では未開の人を教え導かなければならないという考えで行動していた、というような描写がされていて、ある意味では黒人に対する救いがない状況を様々に書き分けているのがすごく読ませるし、おもしろい。
解説で円城塔が書いているように、これがフィクションの力であり効用であるということだし、そこから黒人差別に用いられてきた言説こそが虚構=フィクションであると喝破しているのは、たしかにそうだなと思った。そしてそのフィクションは現在に至るまでも解消していない。フィクションがもたらした「現実」を「正しく」知ることが重要であるのは言うまでもないが、そこにフィクションをぶつけていくという作者の対抗は見事だと思う。少し前に『フライデー・ブラック』を読んだときも、同じようなことを思った。