AIの時代の不気味

   妻とクルマの「自動運転」の話をした。
   妻の言うに、自動車に運転を任せて「運転席の人間」はスマホをいぢってる、という映像を見たことがあるそうだ。

「何でもAI」の時代が来つつあるようだが、はて、それでいいのか。
    たとえばAIが小説を書いたとして、それが数多の文豪が平伏す程の名作大作だったら、それは人工知能を発展させてきた人類の勝利なのだろうか。
    人々は享楽するだけの存在になるのか。だとしたらそれは決して「ユートピア」ではない。極めて末期的で恐ろしいことだ。俺は嫌だ。

    それは、手を伸ばせばバナナがある環境に棲む野生のサルと似た状態に思える。
    
    慈悲、倫理、分かち合い扶け合い、嘆き悲しみ怒りやその克服、夢、希望、生老病死、それらがあって人は人として保持してきた。数々の技術、発明も人がそのような人であるからこそ人を活かし救うためになされ積み重ねられてきた。AIは畢竟それを終焉に導く。或いは「振り出し」に戻す。そんな思いが去来
している。

    上記は固より余の感覚だけの言動であって、要は妄念に過ぎない。
    既に世界は音もなく少しづつ「そっち」に進んでいるわけだから、我々は或いは自然に受け入れて行くのかも知れないし、そうなればそれに合わせて人間の在り方やその意味も変わっていくのだろう。「致し方ない」のではなく「そんなもんだ」と考えるべきか、いや考えを放擲するべきか。

   所詮、軽佻浮薄なる余には何もしょうがない。ただ、自分が人間であって、しかも出来損ないであることを全力で自認し続ける。たぶんそれしかできないし、できるとしたらそれはむしろ有難いことなのかも知れない。
   
    とどめ。鉄腕アトムが闊歩する街は、自分は彼岸から見たい。あんなもんはアニメから出てきてはいけない。余には不気味に過ぎる。
(了)


    


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