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誇り高い会津のサムライたち

2022年3月5日
とうとう、念願の会津若松にやってきた。

なぜ、会津若松に来たかったか?
それは会津藩の藩士の子供が藩校日進館に入る前に、習った什(じゅう)の掟の一つ

「ならぬことはならぬものです」

に象徴される、
真っすぐで一本筋の通った会津のサムライたちに会いたかったからだ。

確かに、史実では会津藩は明治元年、戊辰戦争の一つである会津戦争に敗北した。
なぜ、会津戦争に負けてしまったか?

それは一言で言い表すならば
武士としての筋を通したからである。

藩祖保科正之の定めた家訓はこう言っている。
「徳川将軍家に対してはただ、心を定めて忠義を尽くすこと。ほかの国の例を真似することがあってはならない。」


会津家訓15か条

「会津家訓15カ条」
一、大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず。

原文
鶴ヶ城 2022年3月5日撮影

天皇と将軍、2つの権力構造


15代将軍慶喜が朝廷に政権を返還した「大政奉還」は1867年10月14日(慶応3年)のことであった。このとき、徳川家は新政府の天皇を中心とする権力構造の中の一員として参加することを期待した。
 しかしながら、そうはいかなかった。
薩摩と長州藩は武力によって幕府勢力を一掃したかったからである。

戊辰戦争のはじまりは慶応4年(1868)1月2日。
兵庫沖に停泊していた薩摩藩の軍艦を幕府の軍艦が砲撃した。
これによって、日本の権力構造を一新させる革命の動乱が始まった。

もともと、
幕府と朝廷、この2つの権力は相反するものではなかった。
将軍家14代の家茂は皇女和宮(孝明天皇妹)と婚姻関係を結んでいて
将軍家茂と和宮の夫婦関係は良好であった。

幕府は日本各地に存在する藩の頂点に立つ将軍の立ち位置である一方で、天皇は将軍も超えた権威を持ち合わせる日本の象徴であった。
将軍は自らの権威を認めてもらうのに、天皇の権威を利用したし、
天皇家は京都守護職という幕府が新設したお役目によって幕末の動乱から守られたからである。

2つの権力は質が違い、矛盾しなかった。


朝廷の敵になった徳川幕府

さて、幕末の京都守護職に当たったのは、会津藩主の松平容保(まつだいらかたもり)。
京都の過激な思想のとりしまりや天皇や天皇の住居である御所を守る役目であった。

徳川幕府内には、将軍家と仲が良い藩とそうでない藩が存在していた。
①仲が良い藩の代表は会津藩
➁不穏な動きをみせたのは長州藩や薩摩藩などの討幕派であった。

さて、朝廷には岩倉具視(いわくらともみ)という公卿がいた。
戊辰戦争の鳥羽伏見の戦いが勃発すると、岩倉具視は薩摩藩の大久保利通と長州藩の品川弥二郎に、誰も見たことがない錦の御旗(にしきのみはた)を半ば想像で製作させ、薩摩藩の本営が設置された京都の東寺に掲げさせた。

ウィキペディア「錦の御旗」より

この効果は絶大で、錦の御旗が立った新政府軍は朝廷の後ろ盾を得たことになり、
旧幕府側はこのときから朝廷や天皇家の敵・逆賊となってしまった

慶応3年までは敵なのか味方なのか分からず、混沌としていた権力構造が、年があけた慶応4年になると、朝廷に対立する旧幕府勢力という構図がはっきりと描かれてしまったのだ。

慶応4年1月7日、朝廷側はついに「慶喜追討令」を出した。
この、慶応4年1月の慶喜追討令が出されると、徳川家と縁が深い会津藩もなんと・・・・・追討令の対象となってしまった。つまり、朝廷の敵となってしまったのである。

これは天皇家や幕府を助ける役目の会津藩主の松平容保公も驚いただろう。
天皇をお守りする京都守護職の自分や会津藩が「朝敵」の汚名を着せられるなんて・・・・。
耐えがたい屈辱だったに違いない。

ここで、「朝敵」つまり、天皇の敵となることに耐えがたい藩は新政府側に寝返ったのである。

戦いの舞台は会津へ

慶応4年4月11日
徳川幕府の本拠地、江戸城は開城。新政府軍の手に落ちた。
徳川慶喜は水戸藩で謹慎となった。

もともと、天子様をお守りする会津藩は、天子様のいる朝廷側から、その存在を否定されるような事態に陥ってしまった。
平たく言えば、朝廷からその存在を嫌われてしまったのだ。
朝廷側から信任を受けた新政府軍の矛先は江戸城開場の後、会津に向けられた。
このとき国内で長く燻っていた動乱の火種が慶応4年になって、大きな炎になって会津藩を焼き尽くそうとしていた。

4月20日から7月14日までは会津戦争の前哨戦ともいえる白河の戦いがあり、新政府側が白河城を占領した。
これで、天下の趨勢はほぼ決した、と言って良かった

その後、戦争の舞台は会津に移ったのだが、会津の鶴ヶ城は新政府軍に包囲され、松平容保率いる会津藩士たちは籠城を余儀なくされた。

彼岸獅子作戦


彼岸獅子作戦をご存知だろうか?
悲劇を多く生んだ会津・戊辰戦争。
実は現代まで語り継がれる名奇策がある。
それは会津藩の家老だった山川大蔵の「彼岸獅子に扮して鶴ヶ城に入城する」作戦だ。

城中兵少なく、守備薄弱なり、速やかに帰城すべし


との報を受けた会津藩家老・山川大蔵は鶴ヶ城に向けて出発した。
城下町の手前の小松集落(会津若松市北会津町小松)に差し掛かったとき、鶴ヶ城の包囲網に気づき、城内の人に対して味方の軍勢だとわかってもらうにはどうしたらいいか、と悩んだ。
そのとき、山川は、会津の伝統芸能の彼岸獅子の行列に扮して入場することを思いついた。

彼岸獅子 会津まつり協会HPより



小松村からお囃子の太鼓や笛を急いでかき集めた。
・・・・問題は、誰が獅子に扮するか、ということだった。獅子は3人。列の先頭を練り歩く役だ。勇気のいる役である。

この3体の獅子役を引き受けたのはなんと、10代前半の男子。今でいえば中学生くらいの年齢だ。
この役は失敗すれば新政府軍の包囲網に捕らわれて、命がないことはわかっていた。それでも、会津藩主松平容保に援軍を送りたい、そんな思いがあったから引き受けることができた。反面、息子を送りだす親の思いはどうだったか・・・想像がつく。

悲壮な覚悟を胸に隠して、冷静に舞を舞い、お囃子を奏でながら鶴ヶ城に行進していく彼岸獅子の一団と、それにまぎれた山川の隊。

新政府軍の包囲網は訳が分からず、ただ唖然として見つめて行列を見送った。
 このとき、城内の会津人たちは、危機が迫った緊迫の状況で、遠くから聞き覚えがある懐かしい彼岸獅子のお囃子を聴いて、どう思ったのだろう。

「・・・・彼岸獅子!」
みんな、胸がいっぱいになっただろう。
獅子を先頭に、家老山川の姿を見つけると、援軍ということがわかって歓喜に沸いたに違いない。いそいで固く閉ざされた鶴ヶ城の門を開いただろう。

行列の先頭を歩いた、10代の前半の、獅子を務めた男子の勇気は本当に素晴らしい、と私は思う。

鶴ヶ城陥落


1か月間の籠城の後9月22日鶴ヶ城は陥落。そして開城した。
このとき、誇り高い会津の人たちの屈辱はいかばかりであったか。

将軍徳川慶喜が水戸で謹慎、ということになり、これを受けて士気が大きく下がった中にあっても、自分たちの信念と生き方を曲げず、会津の魂ともいえる鶴ヶ城を守りたいと必死に戦ったのだ。

時代の趨勢を読み、幕府を裏切り、新政府側につく藩もあった中で、最後まで幕府側について、戦ったのは会津藩だった。鶴ヶ城の攻防戦がそれを物語っている。

幕末のジャンヌダルク 山本八重の和歌

損傷した会津戦争後の鶴ヶ城 ウィキペディア「若松城」より


「明日の夜は何国の誰かながむらん なれし御城に残す月影」 山本八重
訳:明日の夜はどこの国の誰が眺めるのだろう。 慣れ親しんだお城に投影された月影よ。

現代の鶴ヶ城

以前より会津若松市の鶴ヶ城を訪れたいと思っていて、念願叶ったのは2022年3月。
壊滅状態だった鶴ヶ城は、再建され蘇っていた。当時の激戦の記憶を刻むこの場所。
 誇り高い会津のサムライたちは確かに存在したのだ。


※山本八重は2013年の大河ドラマ「八重の桜」の主役で綾瀬はるかさんが演じた。会津での鶴ヶ城の攻防戦ではスペンサー銃を操って、男装で戦う姿が印象的。

☆会津まつり情報サイト
会津まつりナビ


参考URL
ウィキペディア「会津籠城戦
ウィキペディア「山川浩
ウィキペディア「徳川慶喜

参考文献
会津若松市史歴史編 7『会津の幕末維新』会津若松市教育委員会 2003
『詳説 日本史研究』山川出版社 2017 


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