見出し画像

飛鳥・植山古墳と額田王の苦悩

古(いにしえ)に恋ふらむ鳥は時鳥(ほととぎす) 
けだしや鳴きし 我が思へること
               『万葉集』巻2-112 額田王
訳:昔を恋するように鳴く鳥はホトトギス。 
ホトトギスは昔から変わらない鳴き方をしていたでしょうね。 
私が昔を恋しく思うごとに おそらく鳴くのでしょう。

上の歌は7世紀に飛鳥を舞台に活躍した女流歌人・額田王(ぬかたのおおきみ)の歌。
聞いたことはおありだろうか。ホトトギスの鳴き声を。

ホトトギスの鳴き声は独特だ。そのホトトギスを7世紀の歌人・額田王はこのように詠んだ。

飛鳥は都が近江や藤原京に移るまで、古代の大和の国の首都だった。

この、ヤマト国にある飛鳥の都の外れに植山古墳という長方形墳がある。

この古墳公園の斜面に二つの玄室を納める方墳がある


主体部がこのブルーシートに保護されている(2022年12月)
植山古墳の平面図

最寄り駅は近鉄の岡寺駅。徒歩約10分に位置する。
この植山古墳は終末期の古墳で6世紀末から7世紀前半にかけての築造とされる。
具体的には藤原京の時代だ。
参考URL→  かしはら探訪ナビ

植山古墳の被葬者は額田王とその孫


この方墳の被葬者は誰か?
ウィキペディア「植山古墳」によれば、推古天皇と息子の竹田皇子の墓の可能性を示している。

一方で、地元の伝承によれば、額田王(ぬかたのおおきみ)の墓という。

私はこの植山古墳は、額田王と669年生まれの孫・葛野王(かどのおおきみ)の墓だと考える。

額田王の生涯


額田王は万葉集の女流歌人としても有名だ。
『日本書紀』によれば
額田王ははじめ、大海人皇子(天武天皇)に嫁いで、十市皇女(といちのひめみこ)を産んだ、という記述がある。

その前半生は『万葉集』の歌から読み解けるように華やかだ。
斉明女帝(皇極天皇の重祚)の御言(みこと)持ち(天皇に代わって歌を詠む官人)だった。また公の宴席で歌を詠んだ様子が『万葉集』に収められている。
20番歌と21番歌の大海人皇子との歌のやりとりは有名だ。


茜指す紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る(巻1・20・額田王)
紫の匂へる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも(巻1・21・大海人皇子)

これらは蒲生野の薬草狩りのあとの宴席での歌だ。

しかしながら、こうした華やかな時代は長くは続かなかった。
あるクーデターが起こり、彼女の運命は一転する。

672年の壬申の乱である。
天智天皇の皇子・大友皇子に対し、叔父である大海人皇子(天武)が兵を挙げて勃発した乱である。反乱者である大海人皇子が勝利した。

額田王はもちろん無関係ではいられなかた。
額田は大海人皇子との間に十市皇女(といちのひめみこ)が生まれていて、その十市は天智の後継者である大友皇子の正妃だった。十市にとって父と夫との戦いであった。

額田王は天智天皇の寵愛を受けていたために、大友皇子の義母としての役割が強かった。
乱の勝者・大海人皇子(後に即位して天武天皇となる)との間にかつて娘を産んだのは事実・・・とはいえ、天智天皇との縁が強かった額田はこのクーデターの後、敗者の側に立った。

このときに額田が何歳だったかは不明だが、十市皇女と大友皇子との間に、男子が生まれており、この葛野王(かどののおう/かどののおおきみ)の祖母であった。

そんな額田に、天武天皇7年(678年)悲劇が起こる。
天武天皇が倉橋川の川上にたてた斎宮に出向こうとした4月7日朝に十市が亡くなった。

『日本書紀』の記述は次のようだ。

十市皇女、卒然に病発して、宮中に薨せぬ

この不審な急死は自殺とする説がある。
天武が父で、夫が乱の敗北者・大友皇子という生きづらさを感じながら、約7年生きてきたが、行き詰まりを感じてとうとう自ら命を絶ってしまった、と私は考える。

こうした、身内に起こった存在を引き裂かれるような悲劇は、額田の娘・十市に限った事ではでない。


天武の正妃、鸕野讚良(うののさらら)皇女(後の持統天皇)はもともと天智天皇の娘であり、鸕野讚良(うののさらら)は夫に付き従って行動を共にしたが、天智天皇の娘であり、大友皇子とは兄弟関係だ。

対立によって、身内同士が争い、殺しあうといった悲劇。それが飛鳥時代の王族の現実だった。

壬申の乱後の額田王


乱が勃発して、敗者側に立たされた額田は宮廷からは遠ざかっていた。

すでに婚姻関係にあった天智天皇を亡くし、娘婿の大友皇子も失った。
しばらく娘の十市と孫の葛野王と静かに暮らしていたが、その十市もいなくなってしまった。

だからといって、元の夫だった天武天皇に近づく気持ちになれなかった。
仮に近づいたとしても、自分は乱の敗者で風当りが強いし、良いこともない。
実際、天武・持統朝になってからは、宮廷歌人として活躍することはなかった。

額田は仕事も家族も失ってしまった。

自分は一体、どれだけの大切なものをなくすのだろう・・・・
乱さえ起こらなければ・・・・・!


と額田は思っただろう。
この時代の政治の残酷な一面を、身をもって味わった額田の思いを察することができる。

娘の後を追って死んでしまおうか・・・
と思ったかもしれない。

でも、それは出来なかった。
生きる支えとなったのは孫の葛野王の存在だった。

娘が亡くなった今、自分が孫の面倒をみよう・・・・。

結局、このように思ったのではないだろうか。

植山古墳に立つ


乱を生き抜き、孫を見守ってきた額田は飛鳥地方に戻り、この地にやってきた。この植山古墳の丘からは実は二上山や畝傍山や耳成山、香具山が見渡せる。

植山古墳公園から望む畝傍山と二上山


植山古墳公園から望む香具山方面


植山古墳公園から望む耳成山



都が近江に移されたときに、飛鳥から離れることを悲しんで歌を詠んだこともあった。その歌は『万葉集』に収められている。

三輪山をしかも隠すか 雲だにも心あらなむ 隠さふべしや 
              額田王『万葉集』巻1・18


悲しかったことや、苦しかったことや、嬉しかったことなど、
自分の思いがたくさん詰まった飛鳥の外れに、自らの墓を作ったことは、晩年の彼女にとって満足のいくことであった。

晩年は政治的な歌を作ることはなく、表舞台から遠ざかったが
自然の移り変わりや、花の様子を歌に詠むことが生きがいだった。
冒頭のホトトギスの歌のように。


古(いにしえ)に恋ふらむ鳥は時鳥(ほととぎす) けだしや鳴きし 
我が思へること
            『万葉集』巻2-112 額田王


さいごに

私が植山古墳公園に来たとき、額田王を想起した。

『万葉集』の有名な歌人で、華やかなイメージがつきまとうが
実際の生涯は内乱に翻弄された苦難に満ちたものだった。

飛鳥といえば、高松塚古墳の壁画のようなきらびやかな女官たちのイメージのような世界を思い浮かべるかもしれない。

ウィキペディア「高松塚古墳」より「西壁女子群像」

しかし、王家内部での政権争いという残酷な面も持ち合わせているのが飛鳥時代だ。しかも王家の争いに有力豪族が乗じて、事態はより深刻化した。

この国が産声をあげたのは飛鳥地方。この飛鳥地方が栄えた時代は、いわば国家としての黎明期だ。
この黎明期に古代国家は、分断と統合を繰り返しながら成立した。そして、その過程には多大な苦痛がともなったのだ。額田王の生涯のように。


近鉄線から見る二上山


2022年の年末から2023年の始めにかけて、私は、奈良盆地に存在したヤマトの国がどのように成長したのか、・・・・もしくは衰退したのか、その過程をたどる旅をした。

そして、今に残る古墳が語り掛けてくる古代日本の原像をさぐる。
日常の煩雑さから逃れて、とても良い旅であった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?