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【小説】朔望月

冗談地味た寒さのベランダに、風に煽られたカーテンが迷い込む。真昼の白い月が現実味の無い平行世界のように見える。遠くに見える飲み屋の光の群れが、天然の暖房のように熱を放っている。

冬になると、人の居る場所は近付くだけで暖かみが分かる。まるで突き動かされるように、はっきりとあそこは寒さを凌げる場所だと分かるのだ。

レオンという飼い猫のことを思い出す。高貴なグレーの毛並みを撫でると、何故か反転して自分が撫でられているような気分になった。

よく覚えているのは、夜中に寝てしまったあとのレオンを、ぼうっとただ撫で続けていたことだ。
鳴き声も帰ってこない、静かな寝息だけを聞きながら、今撫でたところで向こうの記憶には残らないのにと自分自身を訝しんだりした。小さいお腹が上下に動くのを見ながら、臆病に頬を寄せてみたりした。

歴史上の冷酷な独裁者はきまって犬猫を飼うんだよ。なぜだと思う?
あの頃一緒にいた同居人が、べこべこの檸檬堂の缶を手持ち無沙汰に持ったまま言った。
人間不審だからだよ。懐けば裏切らない犬猫が愛おしいんだ。

同居人は嫌な奴だった。
整った顔で、何処かで聴いたような政治論や、あまり科学的根拠のなさそうなステレオタイプを満足気に説いた。自分は全てを上手くやれるという自信が仕草から滲み、攻撃性ではち切れそうな胸を張って歩いていた。生半可知識があるが故に、変に反論しても倍返しに会うだけなので、
自分は黙って遠くのやかんの湯気の音を聴いていた。嫌な奴だが、嫌いなわけではなかったのだ。

あの頃家に帰ると、時折すでにオレンジ色の電気が付いていた。同居人の生意気な口元が緩んで、静かな彼の隣で飼い猫も眠っていた。
あまりに寒い外からふと窓を見た時、確かにあの7畳半の部屋は暖かかった。

水道水ばかり飲んでいたが、同居人に合わせてやかんでお湯を沸かして、スーパーで買った麦茶のパックを煮出して、他人の家の味がする液体を冷蔵庫に常備したりした。日常の全てがままごとのようで、まるで身に付かなかった。同居人は取り憑かれたように檸檬堂ばかり飲んでいて、赤く火照って別人のようにバランスが崩れた表情を、不思議がって眺めたりしていた。

レオンはどんどんよく眠るようになった。
体力が落ちているらしかった。

猫が老いるのはとても早かった。
思い返せば私はレオンの群青の澄んだ眼に、まじまじと見つめられる事が怖かった。彼の瞳の中に映る自分をみると、耐えられなくて見えない場所へ逃げたくなった。深く深く関われば、弱い彼にとっての自分は、不器用に加害をするだけの存在になってしまうと漠然と知っていた。
何故だろう?ただ、怖かったのだ。

寝静まったレオンの、細い毛が連なって絹のようになった背中を撫でると、くっきりとした脊椎の感覚が指に伝わった。そうして私は、その温かさに酷く安心するのだった。

レオンが去年の12月に死んでしまって、同居人とは別居することになった。数カ月して会うと、彼は明らかに他人行儀な一線引いた声色をで話をしていて、
ああ、すっかり表面を滑る他人同士になってしまったのだと退屈な気分になって、それっきり大した連絡は取っていない。

冬の空はよく晴れて、手を伸ばしても何にも届かないくらい高い。
死んだら星になるとは言うけど、あまりに冷たくて孤独でそれっぽくて、哀しいことを言うものだと思う。

涙も出ないし苦しくもなく、ただわざわざ寒いベランダに出て、青白い月を見て立ち尽くしたくなるような気持ちは、何と言えば良いのだろう。わざわざ引っ張り出したダウンを寝巻きのままの上に着て、自分もまた少しずつ老いていくのを感じながら、日曜の昼下がりをずっと引っ掻き回している。

だんだん満ちていく月は、暗闇で広がっていくいくレオンの瞳孔に似ていて、
私は月を見るのが少し怖い。

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