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糸島のアルゼンチンから、巻き込まれの旅に

福岡県の糸島にて「ソフトな人類学〜裏・糸島フィールドワーク編〜」という一泊二日のフィールドワーク合宿に参加してきました。

1日目、集合場所の本屋アルゼンチンさんを目指しながら。もう楽しい。

ソフトな人類学〜裏・糸島フィールドワーク編〜

  • 本屋アルゼンチンさんを拠点に、福岡県糸島市を巡る

  • 色々な活動をしていたり興味を持っている20名の参加者の皆さま

  • 初日にペアでフィールドワークを行い、それをまとめて2日目にみんなでシェアしあう

  • 素敵で豪華な皆様がサポートしてくださいました!

比嘉さん水上さん室越さん松薗さん牛丸さん大谷さん、とーますさん、皆様ありがとうございました。


感じたこと、受け止めたこと

実際にフィールドワークをしたり、参加者の皆さまのシェアを聞いたりしながら、感じたこと。

・ 巻き込まれ、身をまかせること

事前に調べたり計画を立てたりしながらも、フィールドに入った時にはそれらを手放し、起きることに巻き込まれ、身をまかせてみる。

事前インプットセッションで、人類学者の皆さまから

当初、僕らのペアは「筑前深江」というエリアを歩く予定だったのですが、開始直後にエリアを「鹿家(しかが)」に変えてみました。

「何があるかわからないけど、なんとなく面白そうだし行ってみますかー」ペアの方と自然に生まれた会話からの選択が、その後のフィールドワークの流れを生み出してくれた気がして、とても心地よかったです。

こっちの持っている枠にはめに行くのではなく、その現地で起きているリアルに巻き込まれる準備ができた感じ。

巻き込まれながら、こんな場所にも出会いました。

巻き込まれ続けること、舞台にあがったら身をまかせて踊ってみること。「ゆるゆる・ぷかぷか・どんとこい」みたいなマインド。これはフィールドワークを通して世界と向き合うひとつの鍵になる学びだと思いました。

と同時に、この世のどこでも「何か」は起きているし、起きていなかったとしてもそこから受け取れるものがある、というのも気づきに。

翌日、色々なチームの皆さまも「何かが起きる」「何かに巻き込まれる」体験について話されていたのが、とても印象的でした。なんだかみんなその話する時、楽しそうに話していたのを覚えています。

糸島の人々の雰囲気や土地の力ももちろんですが、サポートしてくださった人類学者の皆さまの醸す空気感も、みんなの背中を大いに押してくれたのでは…などと想像しています。


・ 「答えてもらう」ことと「教えてもらう」こと、そもそも「出会う」こと

こっちから質問して「答えてもらう」という関わりだけじゃない。丁寧に関わり、受け入れられながら、向こうから「教えてもらう」関係性。

メッシュワーク比嘉さんのコメントから派生して

今回のフィールドワークでは、出会った人に話をききながら「聞き書き」をする、ことも目的のひとつ。

フィールドで地域の方のお話を伺う中で、「質問する」「答えてもらう」ことの難しさを改めて感じていました(とてもパーソナルなお話をして下さった方もいらっしゃったので、より一層…)

「質問された」相手は答えなければならない。もちろん、答えないという選択肢もあるけれど、その態度自体も一つの答えになってしまう。さらにいうと、質問をきかれた瞬間、望むと望まざるとに関わらず、相手の中には思考や感情の反応が起きてしまう。質問してしまったら、なかったことにはならない。そんなことを考えながら、いつしか僕は「話を聞く(訊く)人」から「その場に居合わせた人」になっていた気がします。

そんなことにモヤモヤしながら、最後の振り返りの時にメッシュワーク比嘉さんから冒頭のコメントをもらった時、そういう見方もあるんだと、少しすっきりした気もしました。関係が深まっていく中で、教えてもらえることの内容も少しずつ変化してくるのかな、などと考えながら。自宅を案内してもらったり、他の人を引き合わせてもらったり、玉ねぎをもらったり(!)

ただ、今あえてもう一回ひっくり返してみると、質問するしないの前に、出会ってしまった。この紛れもない事実に、面白さを感じています。あの時、反対行きの電車に乗らなかったら、行き先を伝えなかったら、車に乗らなかったら、呼び鈴を押さなかったら。

そんないくつものハードルを無意識に潜り抜けて、出会った。

この出会いについて、「奇跡が起きた」というよりも、(仮に奇跡というものがあるとすると)それはいつもすぐそこにあって、「そこに目をむける丁寧な補助線が引かれた」体験だったような、そんな印象を持っています。その補助線を、普段の暮らしの中でも引いていくと、何が起きるのだろう。


これも「出会って」、「教えてもらった」もののひとつ。


・ 生きるための「ものがたり」、の力

物語に託せば言葉にできない混沌を言葉にすると言う不条理が可能になる。生きるとは、自分にふさわしい自分の物語、を作り上げていくことに他ならない。

フィールドワーク後、たまたま本屋アルゼンチンで購入した
小川洋子,河合隼雄『生きるとは、自分の物語をつくること』

「糸島」について聞いていても、「お仕事」について聞いていても、それらのテーマはあくまで「器」で、その中に湛えられたその人自身の物語を強く感じる瞬間がありました。

人が「語る」ということの意味。前からその人の中に存在していた物語も、話をする中で即席に紡がれていった物語も、何かを支えるために存在しているような印象。その物語を私たちのために話しているのか、自分のために話しているのか。

その物語が、「混沌の中で生きることを支えている」というと大袈裟に聞こえるかもしれませんが、それに近いようなものを感じざるを得ませんでした。と同時に、もしかしたら自分がその人だったかもしれない、もしかしたら目の前の人がその人だったかもしれない、とも思えてきて、一人ひとりの奥に流れる物語というものに強くアンテナが立ちました。

(ここはもっと深く書きたい部分なのですが、お話の具体にも関わってしまうことなので、ここまでに)


・ 解釈を持ってフィールドに立ち戻り続けること

・地元の人は「糸島」という大きい単語で語らない。鹿家、前原という規模で、大切にしている「表」がある。
・小さな「表」が、大きな「表」の文脈に乗ってしまった時、何かが失われる感覚があるのでは?

フィールドノートより、仮説の種

さまざまに散らばる点と点をつなぎ合わせて、問いを立ててみたり、「もしかしたら…と」解釈をしてみたりする行為が、個人的にはとても好きな時間で、今回のフィールドワークでも良くも悪くもそのような思考がぐるぐる働いていました。

・博多のコンビニにおいてあった「糸島」のガイドブックだけのラック
・JR筑肥線に乗りながら「糸島」という単語に出会わず、各駅の駅名標にただ所在地として出てくる福岡県糸島市の小さな文字
・観光案内所の話と100メートル先の商店街で起きていることのすれ違い
・地域の人から地域の人へのもてなし
・「糸島」を主語にした問いかけに対して、行ったことないおすすめを教えてくれる地元の方
・「糸島」の文脈に載らないように息を潜めている美しいもの
・鹿家と東京の青山とが点と点でつながる
・同じ「糸島」の中でも場所により海の表情が違うこと

フィールドノートより、雑多な気づき

ただ、今回はあまり急いで解釈したくないような、もうちょっと留保しておきたいような、そんな気持ちがわいていました。

上手い例えかわからないですが、クイズ番組の問題で「にんじん、玉ねぎ、じゃがいも…」と出てきて、「カレーライス!」って頭に浮かんでるけど、「本当にそうか?まだ答えない方がいいんじゃない?」みたいな気持ち。もう少し先まで問題文を聞いたら、「イノシシ」とか全然違うもの出てくるんじゃない?みたいな。

なので、2日目に発表のための途中経過の解釈を持ちながら、それを持ってもう一度フィールドに立ち戻りたい気持ち、その解釈で落ち着くのではなく、もっと多くの物語をぶつけてその解釈をアップデートしにいきたい気持ち、が強かったです。

イノシシはイノシシで出会った(苦手な方いたらごめんなさい)


最後に…

書き出したらだいぶ長くなってしまいました、ここまでお読み下さった方がいらっしゃったらありがとうございます。

大学院留学をしていた時、クラスメイトが「Informative(勉強になる、学びが多い)」と「Intriguing(興味深い、より知りたくなる)」を使い分けていたことを、思い出しています。

人類学と僕の出会いは、このInformativeな側面への期待から始まった(人類学が、自分の仕事や活動に何か示唆があるのではないか?)のですが、今回のフィールドワークを受けて、「何が使えるか」という視点だけではなくて、Intriguingな気持ちに正直に、人類学を人類学として経験する・味わう、ということを続けてみたいなぁと思っています。

色々なものに巻き込まれながら、巻き込みながら、自分の視点から他者を見たり、他者の視点から自分を省みたり、ゆるゆると。


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