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新田ファドヴィデ(あるいは聞きたくもない声について)

まず誤解のないように言っておくと題名は不知火フレアの歌であるATELIERを何回も何回も聴いていたら歌詞の~ったATELIERの部分がどうしてもそう聴こえてしまった(オルゴールバージョンだった)からどうしてもアウトプットせずにはいられなかったという事情がある。ヘッダ画像をお借りしています。

つまり聞くに堪えない声とは不知火のそれではないことを名言しておく。

以前も造った声がまぢむりみたいなことを書いたがそれは健在で、

自分でも驚くことに2回書いている。これは相当ぼくの中で深く根を貼っているのではないだろうか。で最近わかったけど、なんかもろ「個性を出したくてたまらない」、みたいなオリジナルな間で話されるとこれも無理だという。

不自然に間を開けた時点でそれはもうコミュニケーションの阻害なわけです。悲しいかなそういう話し方するやつって、いわゆるブランディングの場におけるマーケティング行為の結果としてその出力を選ぶわけです。広告の色を決めるかのように、そのゴミみてえな間で話す決断をして、そういう自分を演出=ブランディングしてるように見えやすくなってしまうという下地があるから、当人にそのつもりがあろうがなかろうがそう見える。

遠慮したところで傷つけるだけなので偉そうに聞こえるかも知れないが、そもそも声を造った時点で1ペナなわけです。

そこへ「絶対必要ねえだろ」というような間のとり方、コミュニケーションの仕方が湧いて来たらもはやあわせ技で一気にスリーアウトといえないだろうか?交代である。風俗のたとえ話でよく言われるというチェンジである。ぼくは風俗関係施設にガチで入ったことがないのでこれはGTOの知識である。

だって「意図的にコミュニケーションを不全に」してるわけですよ。今からコミュニケーションを自分ととってくださる貴重な相手の気分を差し置いて、自分の「見せ方」などというクソどうでもいいものを優先している。この時点で、最早大切に扱う奴ではなくなることがわかる。京都ならぶぶ漬けを飲まされる。100℃でね。

なんといいますか、承認欲求がデフォルトみたいな蔑視をされてるZ世代が異質とかそういうんじゃなくて、どんな世代にだってこのように自己ブランディングの優先度の調整レバーがおかしい奴がおそらく何らかの健康な人の体に突然起きた吹き出物のように出てきちまうんだろう。働き蟻の1割が絶対にさぼるんでしたっけ?でその1割だけをかき集めたら、その中の1割も必ずさぼるみたいなのありましたよね。それです。全くこの世から必要とされてないのに、誰もが(もしかしたらそいつ自身も)望むとも望まざるとにも関わらず、自然発生的に生まれちまう。割となんてこった。自家中毒で勝手に淘汰されるシステムが組み込まれてくれてないものか。

それだけ耳から入るものとは知的生命体の心を簡単に不快にさせられるのだ。割とマジで恐ろしいことではないだろうか。なんか高性能の耳栓があるらしいからガチ目に身につけるべきなのではないだろうか?


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