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グラントリノとインターネッツいきり豚の共通点

今ぼくはグラントリノを見ているわけですが、この文には致命的な内容ばれとウォルトから受け継いだうすら汚い単語まみれがあるので見てない人は読まないでいただきたい。ヘッダ画像をお借りしています。

昨日は見てる途中で書いた。あのような終わり方をするとは思っていなかった。昨日のぼくを改めて振り返ると、

映画「グラントリノ」は冒頭からクソ面倒な社会的テーマがある。この映画は、クリント・イーストウッドが監督兼主演を務め、多文化社会の緊張と個人の救済を描いている。

  • 冒頭の描写: 映画は葬式のシーンから始まる。主人公が社会的、個人的苦悩に直面する。人生の転換点。だって明らかにもう救いようのない病気にかかっている

  • キャラクターの複雑性: 主人公は無神論者でレイシストで話の冒頭でいきなり逝ってしまった奥さんだけは愛してるという極端な性格を持ちながら、映画が進むにつれて変化

  • 社会的問題の描写: 人種間の緊張、世代間のギャップ、文化的伝統の衝突など、多くの社会的問題
    特に、主人公の隣人であるタオとその家族の描写は、文化的アイデンティティと個人の成長のテーマ

  • 分析と意見:
    現代社会における重要な問題にどのように光を当てているか?キャラクターと社会的テーマは、観客に議論を呼ぶ

  • 結論:
    単なるエンターテインメントではなく、現実の社会問題を反映してる

といっている。でもこんなこと見りゃ誰でもわかる。全員カスだって言いましたね。で唯一大丈夫なのがタオの姉貴のスーだ。

主人公ふたり、違うベクトルでカスだったわけです。ウォルトは言うまでもない。口を開けば相手をゴミ扱いする言葉が出てくる。つまりk

……ここまで書いて、今回結論にしようとしたことと別のことを思いついてしまった。ウォルトというカス、タオという(周囲の悪影響で仕方なくごくごく消極的に)カスになりつつあった子供、スーという聖人なのに世界中のカスの攻め手を一気に被害として受けさせられる女、という結論にしようと思い、題名も笑顔咲くワイ将とつながってたいにするつもりだったのだが……それは明日にするべきか……

ウォルトがやってることって「外観は」ネットでいきってる豚そのものですね。見たものすべてを自分の言葉で傷つけなければ気がすまない。クソ浅い指摘で勝った気になる。クソどうでもいい倫理観を「正義」だとでも勘違いし、それを「大義名分」にすり替えて、その正義から1cmでも逸脱した(そいつ視点で判定された)誰かを自殺するまで攻撃する。それで自分のストレスを発散する。「公共性・合法的人殺し」である。

でも確かに、ウォルトは実際メリケンのために、祖国という大義のために朝鮮に3年間もいて、そこで人々をぶっ殺しまくった。さらに生き残り、メリケンの主軸産業フォードで信じられない年月身をやつし、この映画の表題ともなったグラントリノを作り技術を蓄積した。自分でもグラントリノを手にすることに生き甲斐を見出した。そして現実に朝鮮戦争以外では人をぶっ殺してはいない。

そこは確かに底の浅いインターネッツいきり豚とは偉い違いである。祖国のために朝鮮人をぶっ殺すのを大義名分としたあたりは確かにネット豚と似てますね。ネット豚はそのへんで拾ってきた自分発ですらないネットスラングで誰かを口で傷つけぶっ殺すが、ウォルトは実際の殺人術を知っている。グラン・トリノの作り方を知っている。外に出ない豚とは決定的に違いますね。

だからグラントリノではウォルトが主人公になり、あのような最後になれたわけなのだが、これがそのへんの豚だったらだめでした。いくらなんでもあの最後にたどり着けるだろうか?ネット豚じゃなくてもそのへんのリーマンでも無理かもしれません。

グラントリノは世代間ギャップを書いているとは言ったが、ウォルトじゃないと意味がない話ではあるのだろう。主人公がぼくだったらとてもじゃないけどあのようなラストは迎えられない。もっとつまらなく映画がおわる。そして夜も終わる。

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