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キリリンキ

樹木希林について考えます。ヘッダ画像をお借りしています。

ぼくは生前の樹木希林についてあまり知ることはなかった。本木雅弘と関係している、内田也哉子と関係があるということぐらいしか……あとは富士カラーで写す程度だったか。

ぼくが見たその演劇は映画なのかドラマなのかすらさっぱりわからないが、ある文化的な流派について指導する立場の女を演じていた。ぼくは当該流派とか文化とか、別にどうでもいいと思っている、それは申し訳ないレベルです。

そして樹木希林自身、ぼくが知る限り当該流儀の先達者とかではないはずだから、知識を身に着けて演劇に及ばなければならなかったんじゃないかと思う。それは台本に書く程度じゃさっぱり意味がないことだと思う。

だって「ある流儀の最上位にいる立場、教えれるレベルの立場」にならないといけないわけだ。しかもその立場を「演技」しないといけないってことは、その流の知識をただ朴訥に覚えて終わり、というものではなく、その映画なりドラマの話に沿った「教えれるレベルの人」でなければならない。

求められる性格なり話し方があるわけです。芸を覚えて脳死でなぞるぐらいなら誰でもできる……のだろうが、それだけでも相当レベルが高い行為であるように思える。だって知らない流をゼロから叩き込み、「人に教える」さまが自然に見えないとまずいわけです。観客が納得するわけがない。

するとこの劇の中で、樹木希林に与えられた役割ってのは他の演技者たちよりはちゃめちゃな量のタスクだったのではないかと思える。見てて面白いんですよね。聞いてても面白い。別にプロの偉い人の指導方法をやるってんじゃなくて、いややってるんですけど、「あー」とか「えー」とか「うー」みたいな別に演劇でやらなさそうな、自分自身に対する合いの手といいますか……息継ぎみたいなことを平気でしていまう。

さっき言った、ただ単に教えられる人を演じるだけなら書いてあるせりふをそのままよどみなく言って終わりですよね。樹木希林クラスならそりゃもちろん……書かれてるせりふをまんま脳死で言ったところで面白いんだろうし、その能力すら余裕であるんだろうけど、普通に演劇してるように見えてとても他者が再現なんてできないことをやってるんじゃないか?思えるような内容を感じる。

こんなん演じるの大変だろうな、みたいなことをぱっと見で視聴者が感じたらそれはそれで違うような……気もする。なんかすげえ力自慢みてえなキャラクタがいて、常時50kgのダンベルをはんはん言いながら持ち上げ持ち下げしながら演劇する人がいたとしたらそりゃクソ大変だろうな俺にはできねえなとか見た人は思うんだろうけど、なんなら見た目それくらい難しそうなことをよく考えると樹木希林はやっているんじゃないだろうか?

ぼくは偶然であった劇とかについて、調べりゃ一発でどんな題名でどんな人がつくり何年にできどんな評判を受けたのかわかるんだろうけど、絶対に調べようとしないことがたまにあり、今回がそれにあたる。知らない自由、知らない楽しみみたいなものもあるはずだ。こと情報化が激烈にすすみ、ちょっと能動すればなんでも分かる世界であるならなおさらである。


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