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共通した欠如とは、欠如が本来宿る媒体を無くしたまま統合できるのか?

騎士団長殺しの1巻、もしくは上巻と言うべきなんでしょうか、上巻の278ページには主人公が書いた絵を自分で見てるシーンがありますね。ヘッダ画像をお借りしています。

さらに一瞬別の場所に行ってた主人公は、座ってた椅子が同じ場所になかったことに気づきます。こと絵を眺める位置については神経質だかららしい。

つまりこの場面は本の表題でもある騎士団長がマジで登場して、読者をビビらせるシーンなんだけど、その前の表現になんといいますか激烈に難解なとこがあり、それは騎士団長の顕現により忘れ去られてしまいがちである。

ぼくも、この本を読むのが2回目だから気がついたといえます。1度目も気づいたかもしれないけど、騎士団長がマジで現れるなんて思わんのでそっちに頭が持っていかれてしまったのだ。

そしてその難解な表現とは、「その欠如の共通性が、AとBの二つの免色を不在のままに統合していた。」という文です。文の引用なので鍵括弧の中にも句点を入れています。

前のページの「不在の非正当性」とかもそうですかね。作者の言葉遊びともいえるかも。形而上学的なひれかつがどうたらとかよく言うので……

い……意味がわからん!主人公は最初に椅子を置いていた位置を(神経質だからか)覚えていて、わざわざ地面にAと印をつけた。

そして勝手に椅子が動かされたとされた後の場所にはB。

「共通性」とは、このAとB両者における共通性なんだろう。欠如が共通している。けど、そのAとBを統合していたとはなんだろう。免色が不在のまま、免色が書かれた絵を統合していた、とは……

共通があるから物事って統合されるものなのだろうか?それは単にSNSとかで自らを正義感でコーティングし、何をも攻撃してもいいとか思ってる連中がやる(ああ、情けないことにそういう連中がやってることなんてそれだけなのだ)レッテル貼りとどう違うのか。タグ付け、ラベル付け、なんでもいい。

例えばハッスタグのように誰でも気軽に、何の経緯もなく物事にラベルがつけられるようになってしまい、だいたいのレビューは陳腐化した。ぼくが書いているこの物語の感想文だってまさにそうだ。

主人公が書いている免色の絵は画角により見え方が変わる。この時点では「何者か」が椅子の位置を勝手に動かしたからそれが判明したわけだけど、一枚の絵が画角により見え方が変わるってどんな感じなのでしょうね。文字だけでこの作者はそれを伝えようとしているのだから驚かされる。そして割とそれがわけわからんくて困っている。

こういう難解な文があると、世間の国語教師とは「こーの文難しいです」とか述べて、さも自分が俯瞰して生徒が解くべき問題文を完全に神視点で観とるでアピールみたいなことをするケースがあったけど、あれはなんだったんだろう。お前はわかってると、年端もいかない生徒に対して俺はプロフェッショナルだからわかっちゃうけどさ~とか抜かすことで自己実現……といいますか自己顕示欲を稼いでいたのだろうか……

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