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自分の人生を生きるとは何か

ふと、思ってみた。「自分の人生を生きる」とは、どういうことだろうかと。いわずもがな、自分は自分なので、今生きている人生は自分の人生のはずだ。これまでももちろん。

だけれども、少し深読みして掘り下げていくと、”誰かのため”に生きていたことも多々あったのかもしれないと、思い返してみる。

小中学生の頃、私は、いい子を演じて周りの人のために生きていたのかもしれない。
「しっかりしてるね、落ち着いているね、真面目だね」

そんな言葉は、嫌になるくらい繰り返された。親も先生も、そういう人間だと思っていたと思う。

でも内心は違った。
しっかりもしてないし、真面目でもない、落ち着いてもいない。

何をやるにも内心ドギマギして、ビクビクして恐怖とか不安しかなかった。学級委員をやったり、部活の部長をやったり、”リーダー”としての役目をやらされることが、なぜだか多くて。。とってもイヤなのに、周りの圧、見えない視線に押されて、やらざるを得ない。空気がそう言っていた。

やりたくなんてないのにやっていた。自分の意思ではない。
そう、”やらされていた”感覚がある。

それって、誰かの期待する自分を演じていたのかなと。誰かの望む”私像”みたいなものを跳ね除けられず、鵜呑みにしていたのかもしれない。
イヤと言えない性格、とでもいうのかな(笑)それを通り越すと、諦めの境地に達するのか、”長”をやらなくていいように、自ら立候補して”副”やら書記やらをやっていた気がする。委員長になりたくがないために、他の役をやるという、なんとも矛盾した思考(笑)

その時に比べたら、いまは、だいぶイヤなものはイヤと言えるようになったかな。


話が逸れたけど、きっと、自分の人生のようでいて、誰かのためであることの方が大きかったんだと思う。母や先生、周りの大人の顔色を伺って、行動を決めてきたのだとも思う。

自分の好きなようにしていい自分の人生だったならば、委員長も部長もやりたくなかったからやらなかったと思う。

う〜ん、そう考えると、周りの人の顔色を伺いすぎていて、自分の人生ではなかったのかなとも思う。それでも、そう決めたのは自分だから、決めてやってきたのは自分だから、後悔とかそういうのはない。恨みとか妬みとか、そういうのもない。

ただぼんやりと、囚われてたなぁ〜とか客観的に見れる現在から振り返ってみるとそれはそれで、おもしろいなと思うだけ。

自分のことなのにね。誰かを想って、ありもしない世間の声に耳を傾けて、気にしなくていい評価を気にして、常にアンテナ張って、敏感に感じ取って、一喜一憂して。。。結構、疲れる毎日だったなと(笑)

それでも、そんな小さな頃の経験があるから今があると思う。
イヤなこともやらなければならないことがある、そんな道理はすでに学んでいたので、やりたくなーい!と駄々をこねることもなく、すんなりとやれたりもする。

自分で決めれる人生ならば、自分の思う通りに。
そうならないこともあるけど、これから先は、自分の人生を生きようと思う。

他の誰でもなく、自分の心が決める。
自分の声を信じて進もうと思う。

それが、自分の人生、というやつなのかもしれない。



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