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知識と日常の話。

結論としては一言。

「消費してんなぁ」ということなのかもしれないです。

そんな話。



最近、自身に知識が無いことを痛感しています。

note でフォローさせていただいている方の記事を読むと、「こういう理論がある」と非常に簡潔にロジカルに様々な考えを紹介されていることも多いんです。

そういう理論立てされた情報に触れるたび、「おお、なんて分かりやすいんだ」と感心し、純粋に尊敬の意を抱きます。他方で「ああ、私にはそんなにサッと差し出すことのできる理論なんて無いなぁ」と思って恥ずかしくなります。

まさにここでいう「サッと使える情報」というのが、私にとっての知識だと考えるわけです。そういうものが、思い返してみると最近全く自分の中に備わっていないことを感じるのです。

いえ、もしかしたら最近に限ったことではないかもしれないです。最近どころか、ここ十年くらいそういう思いを抱いているかもしれません。

結婚して子供が生まれてから、見事に子供中心の生活になりました。毎朝起きてから子供を小学校や保育園に送り出すまでの間は、息つく間も無くギャーギャーと騒いで時間が過ぎていきます。私は普段家で仕事をしているので、当たり前ですが仕事中は仕事をしています。そして夕方になると小学生の息子が帰宅し、そして宿題もやらずに遊び始める彼に対してまた私がギャーギャー騒ぎ、保育園に通う娘を迎えに行けばそこからさらにそのギャーギャー騒ぐ度合いは大きくなり、夕食と入浴を経て寝るまでの間、やっぱり息つく間も無いわけです。

言い訳にしている部分もあるでしょう。どんなに忙しくても、隙間時間で勉強したり自己啓発する人も居ると思いますから、私は「あー忙しい忙しい」と口にこそ出さないものの、日常に忙殺され(たことにし)て、自身と向き合う時間を敢えて取っていないといえばそれまでかもしれません。

じゃあ、結婚する前、独身時代はそういう時間が取れていたのか。思い返すと、当時は、ほぼ毎日仕事終わりにマックに寄り、そこで夕飯を食べつつ資格試験の勉強をするという日々を過ごしていました。

別に誰に言われたわけでもなく、ゆるーく長ーく勉強してましたが、結果的に幾つかの資格試験をパスすることができていたので、その効果はあったのだと思います。仕事で扱う分野の資格でしたが、受ければ受かる的な合格率のものではないものもあったので、ちょっと嬉しかったです。まあそれでも合格率20-30%とかだったと思いますので、世間で言うところの難関資格とかに比べれば足元にも及ばないものでしたけど。

で、そしたら、その時に勉強した内容がめちゃくちゃ役に立っているかというと、なんかちょっと微妙な感じもするわけです。

覚えた情報としては、使える状態になった。それは知識になった。でも、その知識は、今の私にはあんまり残っていないと感じるからです。なんとなーく覚えているけれど、詳しいところは忘れてしまっている。まあ何かしら今やっている仕事の土台にはなっているかもしれないけど、別にそれを知っているのと知らないのとではそこに大きな差は無いような気もします。

うーん。困ったな。やはり知識なんて自分に無いのかもしれない。ここ十年どころか、社会人になってからずっとそんな状態だったことが判明しました。

いや待てよ。それなら、学生時代はどうだ。

これを読んでくださる察しの良い方でしたらお分かりかと思いますけど、学生時代の私も優秀ではありませんでしたし、何なら勉強なんてそこまで真面目にやるタイプではありませんでした。好きな勉強なら没頭してやりましたが、基本的には受験とかそういう目の前のテストをパスするために、仕方なく机に向かっていたような人間でした。

ですから、その学生時代の中で得た知識なんて、実際はなーんも無いのです。歴史の年号だとか、難しい英単語だとか、よく分からない数式だとか、そういうのをその時その時で覚えて、使って、そうやって乗り切ってきたような、思い返すと何も残らないみっともない過去しかありません。

それは、今も同じ。

上で書いたように、ここ最近は毎日ギャーギャー騒いでバタバタして時間が過ぎていくのですが、その中で仕事はやっています。「そうだ、仕事上で得た知識もあるでしょ」と思い、振り返ってみましたが、これもやはり付け焼き刃なんですよね。

こういうケースではこんな技術を使う、そんなノウハウ的なものは多少持ち合わせるようになってきましたが、結局それは断片的なものであって、自分で経験したアレコレを繋ぎ合わせて使っているだけのものなんです。

ですから結局それも、本当に知識と言えるかは微妙なところ。

「こんな理論がありますよ」とサラッと紹介できるくらいにまで血となり肉となった状態ではないんですよね。

それなのに、毎日は過ぎていきますし、私も歳をとってどんどんオッサンになっていきます。私の好きな歌の歌詞で「数年後はもっとおっさん」「明日はもっとおっさん」というものがありますが、まさにその通りです。

日々に流され、知識を身につけることもなく、ただただ時間を過ごす。それはつまり「消費」している感じがするのです。

何を?

時間をです。そしてその時間は有限なものですから、言い換えれば「生命」を消費していると言っても言い過ぎでないように思います。

ここまで書いてきて、まだあまり良い感じに納得のいく着地点が見つかっていないんですけど、とにかく書いてみますね。

「こんな理論があります」として紹介される知識は、私にとってはやっぱり「教科書」的なものに見えているんだと思うんです。私は元来、そこまで頭が良くない人間であり、かつ根性が捻じ曲がった人間なので、そういう教科書的な情報に触れると、何だかそれを鵜呑みにできないのだと思います。

信じられない。それは人間不信のマインドが根本にあるからかもしれません。

どんなに綺麗に、分かりやすく論じられていても、所詮は誰かが考えた意見の一つ。教科書に書かれている情報も、誰が賢い人がまとめてくれたものではあるけれど、それが絶対的に正しいものであるか分からないよなぁ、と思ってしまうのです。

やっぱり何処かの誰かの意見に過ぎない。そういうことを思うと、真面目に自分の血や肉にしたいとは思えなくなってしまうそういう不真面目さが自分にある気がします。ある種の疑いみたいなものを持ってしまうのです。

一応。一応ね。自分でも、完全に開き直ったわけではなくて、色んな知識に触れて、「ああ、すごい。目から鱗だなぁ」と思うこともありますから、どうにかそれを自分のものにしようとしたりもするんです。しかし身につかない。覚えられない。頭が悪いんだと思います。そして捻くれている。

もちろん、そういう理論だったり教科書の知識をしっかりと身につけ、使いこなすことのできる人は立派だと思います。私は性格的にそれが出来ないので、むしろ尊敬しています。先人たちが残してきた軌跡を参考にできるなら、絶対その方がいい。知識とは、今まで失敗してきた人たちが「こうすれば多分うまくいくかもよ」と我々に残してくれた贈り物だと思いますから。

でも、私はそうやって生きてきてしまったし、多分これからも同じような生き方しかできないような気がします。やはり受け入れられないところがある。

そうすると、もうこのまま突き進んでいくしかないのかなと思います。

こんな言葉があります。

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」

ここで言う「歴史」というのが、私にとっての「知識」を指します。

そう考えると、私はどうしてもその歴史を飲み込み、自分のものにすることができない。まるで、ザルから水がこぼれ落ちるように、日々様々な知識に触れても、それが今の自分には何一つ残っていない。そうやってもう三十年以上過ごしてきてしまった感があります。

ですが、知識は無くても、一応経験はしてきている。日々を消費しているけれども、その中で何かしらの経験はしてきている。それだけは大事にしていこうと思っているのです。

私は賢者ではなく、どう考えても愚者のほうですけれど、この経験だけは自分のものでありそこから可能な限り学びや気づきを得ていきたいと考えています。

そして、それでいて知識に触れることも続けていきたい。たとえザルからこぼれ落ちていくとしても、何かしら残るんじゃないのかなという下心を捨てきれないわけです。

傲慢なのは分かっているけれど、やっぱりこんな生き方しかできないんだなぁ。ほんと愚か者ですわ。おわり。

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