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麻布から美大に行って起業した代表井村圭介ってどんな人?【前編】

こんにちは!ファンタラクティブPRの石原です。
今更ですがファンタラクティブ代表の井村がどんな人か、まだきちんとご紹介していませんでしたので改めて経歴から起業に至るまでを辿っていきたいと思います。
「社長がいい人だったので」と入社してくるメンバーも多いのですが、その"いい人"の中身を解き明かしていきましょう。

基本プロフィール

――まずは年齢や出身など基本的なことを教えてください。

「1987年生まれの35歳で、大阪生まれ神奈川県藤沢育ちです。今は奥さんと子どもの3人で都内に住んでいます。」

――ご趣味は?

「アニメ、スノボ、お酒・グルメです。アニメは美大に入ってから詳しい人が多くて影響を受けました。」

Slackの#club_gohanチャンネルではラーメン報告が多い井村さん

幼少期から高校まで

――幼少期はどんなお子さんだったんですか?

「小学校3年生まで大阪の箕面市に住んでいました。特に何か特徴がある子ではなかったのですが、まあ勉強は小さい頃から好きでしたね。成績も良かったです。」

――中学から麻布に?

「そうですね、中高と麻布学園に通っていました。中学受験の直前模試では全国2万人中9位に入り湘南地区でNo.1の成績を残し続けて、受けた中学も全て合格しました。残念ながら人生で偏差値のピークはここで迎えてしまって、その後巻き返すことはないんですけどね(笑)。」

▼クライアントであるウカ代表の渡邉さんとの対談記事。渡邉さんも麻布学園出身で麻布トークに。

――部活は何をやってたんですか?

「中高一貫でサッカーをやってました。ポジションはベンチ兼右サイドハーフです。」

なぜ美大を目指したのか

――麻布からなぜ美大に行こうと思ったんですか?

父がプロダクトデザイナーだったので、小さい頃からプロダクトデザイナーになることしか頭になかったんですよね。デザイナーになるなら美大か千葉大の意匠学部か迷ったんですが、ネタ的に面白そうな美大を目指すことにしました。高校2年から美大予備校に通い始めて、デッサンや絵の具の使い方を学びました。予備校では『麻布くん』なんて呼ばれてましたね(笑)。大学は武蔵野美術大学造形学部工芸工業デザイン学科に合格し、プロダクトデザインを学びました。
今になって麻布に行っててよかったと思うのは、中高の友人たちがこの歳になってくると社長や官僚、弁護士、医者などになってきて、困った時に相談できるのは助かってます。ファンタラクティブに依頼してくれる友人もいますしね。」

卒業制作は、東京都心で使うレンタサイクルのデザインモデル

暗黒時代

――美大卒業後はどこか企業に就職したんですか?

「最初は父の事務所で働いてました。ちょうど就活前にリーマンショックが直撃して100%だった就職率が50%以下に落ち込み、大手は面接にすら進むことができなかったんですよね。
ただ父の事務所も経営状況が良かったわけではなく、僕はバイトをかけもちしながら働いていて、給料面でもキャリア面でも辛くなってきて転職を考えるようになりました。
この頃が今までの人生の中で一番大変で暗黒時代だったなと思うんですが、この時学んだのは、
 ・24時間仕事に集中できる環境は貴重
 ・貧乏はつらいのでお金を稼ぎたい

ということですね。」

Webの世界へ

――そこからプロダクトデザイナーではなくなぜWebの世界に行こうと思ったのでしょうか。

「転職を考えたタイミングでは、リーマンショックの影響でプロダクトデザインの仕事は斜陽に差しかかっていて、未経験者の募集がほとんどなかったんですよね。同時に当時iPhoneが登場した頃でデジタルプロダクトに興味を持ち始めて、未経験に優しいというのもあり、Web業界を目指すことにしました。」

――最初はデザイナー職からスタートしたんですか?

「はい、転職サイトで応募したプライム・ストラテジー株式会社にデザイナーとしてすぐ採用が決まりました。
まず24時間をデザインに使えるのが最高でしたね。大学時代と父の事務所にいた頃はバイトをかけもちしていたので。
プライム・ストラテジーはデザインもやってましたが、どちらかと言えばWordPress実装やサーバインフラ運用が強い会社だったので、ここでコードやインフラにも興味を持つようになり、自分でもコードを書き始めるようになりました。最初は独学しつつ徐々に社内のエンジニアに案件を手伝わせてもらったりしてスキルを身につけていきました。」

フリーランスになる

――デザイナーもエンジニアもほぼ同時期にできるようになったのすごいですね。そこからまた転職を?

「プライム・ストラテジーに入社して1年半が経った頃の26歳の時に、自分で稼げるかチャレンジしてみたくてフリーランスになりました。
フリーランスで受けてたのは、主にWebデザイン、コーディング(JS含む)、WordPress構築です。最初は制作会社から仕事を受けることが多かったのですが、徐々に友人知人など色々な繋がりからも依頼を受けるようになりありがたいことに仕事は途切れませんでした。フリーランス初年度に売上1,000万円を超え、翌年は半年で1,200万円程達成しました。ただ忙しすぎて生協で野菜宅配してもらって最大5日間家から一歩も出なかった時がありました。この時が人生で一番忙しかった時だと思います。」

ファンタラクティブ起業

――フリーランスでの仕事のボリュームが増えてきて法人化したのがファンタラクティブですか?

「そうですね。フリーランスになって約1年が経った27歳の頃によく仕事をお願いしていた友人が僕と非常にスキルが似ていて、彼を誘って会社を作りました。個人的にも消費税を納めなければいけないことやフリーランスにある程度満足したのもあります。
こうして2014年7月にファンタラクティブ株式会社ができました。」

最初のオフィス(兼自宅)

シンガポールへ

――起業してすぐシンガポールに行ったんでしたっけ。

「ちょうど起業が決まったくらいのタイミングで、シンガポールにしばらく住んで一緒にサービス開発をしてほしいというお誘いを受けました。2014年1月に共著で『現場のプロが教えるWeb制作の最新常識 知らないと困るWebデザインの新ルール』という本を出版したのですが、シンガポールの仕事の依頼はこの本を読んだという方からでした。
それで起業1ヶ月前の6月からシンガポールに移住して、起業の手続きは一緒に立ち上げた友人にお任せしてました。」

――色々立て込んでますね…!シンガポールではどんな仕事をしていたんですか?

「シンガポール人を中心としたアジア向けのウエディングフォトサービス『Famarry』を作っていました。
あとはちょうど現地で知り合った日本人で起業を考えている人がいて、彼の事業のロゴやLP制作を手伝ったりもしました。彼とはルームメイトになり一緒に住んでいました。その時彼が作ったのが『SQUEEZE』という会社です。」

セントーサ島で観光を楽しむ井村さん
シンガポールで住んでいた家

社長が「複業」?

――ファンタラクティブの仕事はしていたんですか?

「共同創業者の友人に頼りつつも、僕もシンガポールからリモートでファンタの仕事はしていました。
シンガポールでのプロジェクトもリリースし、そろそろ帰国しようかと思っていた2014年7月頃にまた別の方からお仕事の依頼がありました。その方は人材系の事業を行う企業「LiB」を立ち上げたばかりで、チーフデザイナーとしての仕事をお願いしたいとのことでした。
ファンタラクティブの代表を続けながら、複業の形で良いとのことで面白そうだったので受けてみることにしました。それから週4日LiBに出社するようになりました。」

▼就任時のプレスリリース


なかなか面白いキャリアを歩んできた井村さん。デザインもエンジニアリングもできるようになった理由や、働き方について寛容なのもよくわかった気がします。

後編ではファンタラクティブ初期から今までについて井村さんに聞いていきたいと思います。後編は9月前半には公開予定です。お見逃しないようぜひファンタラクティブのnoteアカウントもしくはTwitterアカウントをフォローしてくださいね。

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