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4/28 オッペンハイマー

ネタバレまじりです。

高坂正堯は、冷戦後に書いた現代の国際政治 (講談社学術文庫)にて、冷戦とは、米ソという例外的な全体主義者どうしの対立だと冒頭に例えた。これは慧眼だと思う。

ソ連は言わずもがな、共産主義国家であり、世界中に共産主義を輸出していた。欧州はソ連という共産主義国家が出来た際には、大いに警戒した。その当時、世界中に共産主義の風が吹き荒れていたからだ。共産主義とは、まるで大犯罪者のようであった。
一方で、アメリカという国もまた、極端な全体主義国家である。これは今も変わらず、歴史の蓄積が少ないからこそ、代わりに判断基準が「正義」になり、その正義を無邪気に押し進める。これは冷戦期には、「世界の警察官」を自認し、マーシャルプラン等を通じて西と東を分け、国際連合により世界全体の正しさを決め、核の傘で敵を抑止した。これは非難しているのでもなければ、是非を問うてもおらず、ただアメリカという国がそういう国だ、と言っているだけである。
アメリカ外交の大戦略: 先制・単独行動・覇権

しかし外交において、ずっとそういう国だったわけではない。少なくともギャディスは、アメリカとは他国から攻撃されるという、自然の防壁とも言える海に囲まれた国にとっての稀有な場面でしか大戦略を転換することはなく、それは過去に3回しかなかったとする。元々は孤立主義だったが、パールハーバーで日本に攻撃されてからは世界の警察官になり、9.11でアルカイダから攻撃されてからはテロとの戦いに転換した。
実質的にキリスト教国家で、特にラディカルな傾向の強いアメリカという国は、大覚醒などの独特なリバイバルを経て、天命としての西への拡大を果たす。そういう訳でアメリカという国家はその成立に、一神教的な理念が根付いており、信仰に基づく全体主義的は傾向とは切っても切り離せない。国家と、血筋としての帝国と、宗教的コミュニティがすべて異なっていたヨーロッパとは国家としての思想的土台がそもそも異なる。
キリスト気やでたどるアメリカ史 森本あんり

アンチピューリタンから派生した反知性主義が、赤狩りとして大戦後に吹き荒れたのも、こうした土壌から生まれたものだった。国民に問われるのは、国に対する忠誠心であり、この忠誠心は正義であるから一様でなくてはならない。ちょっとでも共産主義的傾向があることは、共産党との連帯があるものとして、追放の根拠になりえる。今となっては、「組合」による労働者の権利保護は当然のことだが、それが危険思想として扱われ、国から監視された時代のことだ。
アメリカの反知性主義

森本あんり 反知性主義

にて語られたのは、ピューリタンによる平等さのなかで、それでも成立するハーバード的な権威主義と、根本にあるはずの反権威としての反知性主義との対立である。アメリカに根付いた土着的なキリスト教は、野良の説法を屋外でやり、熱狂した市民が乗せられるような類いの反権威として成立した。

かくして自由の国アメリカとは、理念としては掲げられているが、アメリカ人が、知識や解釈の蓄積とはかけ離れた、熱病のように浮かされた頭で決めた「正義」に沿っていて、「善き」市民であり、「善き」国民でなければ、自由は簡単に剥奪される。「自由」がそのくらい脆弱だと知っているからこそ、自由の国という理念はスローガンとして維持してもらいたい(願望)。 
さて、この映画はオッペンハイマーに関する伝記的な作品だ。オッペンハイマーとは原爆の父として有名だが、いかにしてそれを成し遂げたのか、がこの映画の半分だ。そりゃそう。しかしこの映画は、オッペンハイマーが裁かれるところから始まる。共産主義に共感したことのあったオッペンハイマーは、赤狩りの時代、それまで原爆の父として崇められていたにもかかわらず危険思想の持ち主として取り扱われることになった。そこから、ヒアリングの間に回想が挟まる形で原爆開発の歴史が捲られることになる。
オッペンハイマーはまごうことなき天才である。

しかし、物理学の歴史において圧倒的な云々となると、劇中にはアインシュタインも、ハイゼンベルク、フェルミ、ボーア、ノイマン、ファインマンと錚々たるメンツがいるなかで、やや弱い。逆に言うと、本当に錚々たる物理学者たちが集まってアメリカやらドイツやらで原爆開発に勤しんでいたのである。戦争が技術の発展を促す一端をここに見た気がする。
オッペンハイマーは、このメンバーのリーダーとして君臨する。ユダヤ系として、ナチの台頭は許せない。彼らよりも先に原爆を開発し、彼らに原爆を投下しなくてはならない。共産党員たちに囲まれ、共産党の集会にも出た人間であっても、ナチスを倒すため、労働組合活動は取り止め、原爆開発にコミットしていく。
ではナチスが敗北した場合、原爆開発を継続するモチベーションはどこにあるのか。あと残るは日本だけだ。それでも、原爆は開発し続けるべきなのか。
走り出した車はなかなか止まらない。少なくとも大量の予算を既に使い過ぎている。何も成果物を上げないことは、政治的に許されるものでもない。サンクコストに対するバイアスから、原爆開発は最後まで完遂されることになる。実験は果たされることになる。原爆は、政府に手渡されることになる。手渡された政府は、何を理由にしたのか、決定的な理由が日本との本土決戦による犠牲者の見積りなのか、戦後のことを考えたソ連への牽制だったのか分からないが、原爆を日本に落とした。そして日本はポツダム宣言を受け入れた。

未だに日本が終戦を受け入れたのは、原爆要因だったのか、ソ連参戦だったのかは分からない。分からないが、既に天皇は敗北を受け入れていたようにも思える。あるいは鈴木貫太郎も。阿南をコアに軍部は本土決戦を訴えながらも、そこにリアリティはどこまであったか分からないし、少なくともアメリカが見積もっていた○万人の犠牲、も多めな見積りのように感じる。そもそも正当性で言えば、ドイツだろうが日本だろうが民間人を大量に殺傷する爆弾を落とすことに、法的な正当性は乏しいだろう。
決定版 大東亜戦争(下) (新潮新書) 第9章 戦争終結の道程-「終戦」の意味と要因- 庄司潤一郎

このように、正当性がどの程度あったのか不明瞭ながら原爆は落とされた。戦後、オッペンハイマーは、道義的な責任を感じていたのか、核の国際的な管理を訴えた。水爆の開発に反対した。そうしてマッカーシズム吹き荒れる戦後アメリカにおいて、ソ連のスパイ疑惑までかけられ、危険人物として取り扱われることになった。
劇中で、オッペンハイマーは掴み所がない人物と何度も言われる。それを、子供のように無邪気で高潔で、ルールを破りたがり、厳密な軍人との間でそれがさまざまな問題を引き起こした。劇中でやや妥当そうな空気を漂わせてちた核の国際的な管理も、はっきり言って子供じみている。他国からしたら、そんなものはアメリカ一国だけが開発ノウハウを持っている以上、アメリカのみが得をするルールだろうとして受け容れるはずもない。政治的感覚が鈍いと言わざるを得ない。あるいは、原爆は何十万もの人間を殺すことが分かっているはずなのに、たった一人の不倫相手の死にこれ以上ないくらい傷つく。自分の開発しているものの責任を分かっていないようでもある。戦後、わたしたち夫婦は「成熟した」と言い張っているが、クリストファーノーラン監督が、無邪気なオッペンハイマーの、不倫相手の死と原爆を踏まえて成熟した姿を描こうとしているのだとすると、まぁ最初よかマシかもしんないけどさ…と思わざるをえない。やはり幼稚は幼稚だ。それをある種の高潔として処理したように見える。
しかし、伝記映画たるこの映画は、ややチグハグに見える。伝記映画だから当然なのだが、この映画の場合、原爆開発と公職追放の二つの事象をグイと繋げているからだ。原爆開発しましたバンザイバンザイはい終わり、という映画の方が普通だが、ノーランはそこに道義的な違和感があったのだろう。追放のくだりで、知らない爺さんが何やら証言したり、モゾモゾしているところがなぜか強調されるのだ。そうして、オッペンハイマーがマッカーシズムで追放されるところまでを描いた。
これはオッペンハイマーの道義的責任を暴くとともに、熱狂的で、愛国心のために、オッペンハイマーを英雄のように祭り上げ、そして追い出したアメリカ人の、その矛盾と移ろ気を突くようでもある。しかしそれでいて、強調される爺さん。このストロース爺さんが政治的に負け、論敵のアインシュタインからはフォローされ、勲章を貰うくだりを付け加える。この映画は、やはりオッペンハイマーの葛藤を、最終的に許す。そんな悪くない、くらいに収める。アメリカもそこまで棄てたもんじゃない、と結論付ける。そして、V2ロケットを見上げるシーンが最後に挟まるこの映画は、その美しさと、意義と、核競争の時代へのあれやこれやを混ぜた形とも言えるが、ノーランの、肯定も批判もしきれていない倫理的弱さが気になった。めちゃくちゃ面白いけど、★4。

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