見出し画像

障害、障がい、障碍……?

障害の社会モデル化

 障害を「障害」と書くか「障がい」と書くか「障碍」と書くかについては、様々な意見と立場がある。私個人は「障害」と書くべきだと考えている。なぜなら障害は「社会モデル」で考えるべきで、かつ現にこの社会に様々な「障害」が発生しているからだ。「害」の字を使わないと、その深刻さやダメージがうまく伝わらなくなってしまう。

 社会モデルにおいて、障害とそれにまつわる困り事は、障害者本人の責任でなく、そういうふうに構築された(健常者専用に設計された)社会の責任だと考える。つまり障害とは「障害者本人の能力的な欠如(障害)」なのでなく、「障害者が困っている事態を社会が放置している問題」なのだ。すなわち「社会がその人に害(障害)を与えている」状態。

 だから正確には「障害がある人」でなく、「社会によって障害を与えられている人」となる。

 そう考えると、例えば電車の利用に困っている車椅子ユーザーがそれを訴えるのは、「ワガママ」や「自分勝手」や「特別扱いを狙う甘え」などでないと分かる。車椅子ユーザーが使いづらい(使えない)設計になっているのがそもそも問題であって、それを是正する責任が社会にはある。

 一方で「障がい」や「障碍」と書くのは、「障害と呼んだら障害者がかわいそう」というような、その状態の責任を本人に帰する発想がある。「害」しているのは誰なのか、「害」を被っているのは誰なのか、という視点で考えなければならない。

何が「支援」なのか

 「障がい」や「障碍」を使いたい人は、たぶん善意からそうしているのだと思う。街中で障害者が困っている場面に遭遇したら、積極的に支援を申し出るような。しかし残念ながら、「害」の字を使わないことで、障害者本人が現に被っている「害」を見えなくすることに加担してしまっていると思う。

 「困っているのだから助けなきゃ」という発想自体は素晴らしい。けれど「なぜ困った状況になっているのか」を考えて、設備や制度を根本的に変えていこうとするのが本来の「障害支援」だ。その点を明確にするために、私は積極的に「障害者」という言葉を使っているし、事あるごとにそれに言及している。

 ただ、この表記に関する議論が現場で交わされることは、(自分が知っている限り)ない。支援者も障害者の家族も障害者本人も、そんなこと気にしていない。現に「障害」は「障害」なのだから。どういう文脈でこの呼称問題が生まれたのか、よく分からない。

存在を想定されていない人たち

 「健常者専用に設計された社会」と聞くと、健常者は反発を覚えるかもしれない。バリアフリーだって進んでるでしょ、と。しかし現に車椅子ユーザーが公共施設で何度もトラブルに見舞われているし、その度にひどいバッシングを受けている。施設/制度的にも、精神的にも、バリアフリーが進んでいるとは言えないと思う。

 特権を持つ人(この場合は健常者)は、特権の存在に気づきにくい。それがずっと当たり前だったから。むしろ特権なんてない、と強く否定するかもしれない。

 しかしたとえば、自分は吃音という障害があるので、この社会が「難なく喋れる人しか想定していない」のがはっきり分かる。今でこそアプリ注文に対応する店が増えたが、まだまだ「声に出して何かを伝える」ことがこの社会のベースになっていて、吃音者は毎日、毎回、声を出すたびに緊張や不安や恐怖を強いられている。諦めなければならないことも沢山ある。

 何らかの障害がある人は、それぞれの分野で毎日同じような理不尽に晒されている。車椅子ユーザーは「自分の足で難なく歩ける人しか想定していない社会」によって。聴覚障害者は「難なく聞こえて喋れる人しか想定していない社会」によって。視覚障害者は「難なく見える人しか想定していない社会」によって。

 私たちは「障害」を持っているのではない。「私たちの存在を想定していない社会」によって、「障害」されているのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?