夢の値段と南無阿弥陀仏。
また宝くじのことを考えている。
何度か書いたことがあるけれど、ぼくは毎週宝くじを買っている。自分で番号を選ぶ、ロトくじというタイプのやつだ。銀行口座から直接購入・引き落としされるようにしていて、解約手続きを取らないかぎり半永久的にそれは継続されていく。ちょうどきょう、いつかに買ったくじが当選し、1000円の入金があったというメールが届いた。まあ、当たっても1000円か2000円がほとんどで、赤字を垂れ流すばかりの道楽である。
『さみしい夜にはペンを持て』の装画とイラストを担当してくださったイラストレーター、ならのさんが「能登半島地震被災地支援ドリームジャンボ宝くじ」のイラストを描かれたのだそうだ。
ドリームジャンボ宝くじの1等当選金は3億円。ここに前後賞をあわせると5億円。なんとも豪気な、夢のある金額である。
けれどもこれ、たとえば1等の当選金が100億円だったとした場合、みなさんはどう感じるだろうか。
まあ、ふつうに「わっひょー。100億円当たったら死んじゃうぅ」と胸躍らせる人もいるだろう。「なんとかヒルズの家を買って、軽井沢にこんな別荘を建てて」なんて皮算用をはじめる人もいるだろう。しかしながらぼくのような小市民はやはり、もったいないと感じてしまう。ひとりに100億渡すくらいなら5億円を20人に配ってくれ、と思ってしまう。たとえ見るだけの夢であったとしても100億円はデカすぎるのだ。
そうやって考えると前後賞込みの5億円というのは絶妙な夢のラインで、これが10億円であっても、いや8億円であっても、「ちょっと多いな」と感じてしまいそうな自分がいる。一方で前後賞合わせて3億円の宝くじだと、夢よりも先に老後の蓄え的な現実を見てしまいそうな気がする。うん、5億円はすばらしい夢の数字だ。
ちなみにぼくが定期購入しているロトくじは、毎度のように10億円以上の繰越金(キャリーオーバー)が発生している豪気なくじで、しかも1等が何億円になるのか当たってみるまでわからないアンチ皮算用なシステムとなっている。
競馬に代表されるギャンブルは(あくまでも本人の意識として)等しく「当てる」ものである。よくも悪くも欲望がむき出しで、それだからこそ大当たりしたときの興奮はでかい。
それに対して宝くじは、どこまでいっても「当たる」ものでしかない。競馬の予想屋は商売になりえたとしても、宝くじの予想屋が商売になるとは思えない。その「他力」なさまが、いかにも南無阿弥陀仏な感じがぼくにはおもしろく、ずっと買い続けている。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。