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入門書を選ぶときのコツ。

世のなかにはいま、何冊くらいの本があるのだろう。

いや、この書き方だと『窓ぎわのトットちゃん』だけでも全世界に2500万冊以上、存在していることになる。なので正確には「世のなかにはいま、日本語で書かれた本が、何タイトルくらいあるのだろう」と書かなければならない。知りたいのはタイトル数であり、しかも日本語の本なのだ。

原理的に考えて、世のなかの本をぜんぶ読みつくした、という人はいないはずだ。すべての本を所有している、という人だっているはずがなく、たとえば日本一の大型書店とて、置いていない本はたくさんある。そして大型書店以上の本棚を所有している個人がいるとも、なかなか考えにくい。

そうなると、本を読むことの入口には、どうしても「本を選ぶこと」という作業が発生する。そして本を選ぶのが上手な人と、そうでない人がおそらくいる。読書が苦手だ、という人の大半は「本の選び方」に失敗しているのではないか、と思わなくもない。その人にとっておもしろいはずの本は、ちゃんとあるのだから。

丸谷才一さんは以前、「入門書」の選び方についてわかりやすい指針を挙げておられた。


曰く、「偉い学者の、薄い本を読め」。

逆に言うと、「偉くない学者の、厚い本は読むな」。


こういう話に触れたとき、ともすれば人は「例外」を探したくなるものだ。「あの本は分厚いけれど、すばらしい入門書だ」とか、「ノーベル賞を獲ったあの学者さんの書いた『薄い入門書』にがっかりしたことがある」とか。例外を挙げることで、その説を全否定したくなる。若いころのぼくも、そんなに単純なものかしら、と思っていた。それでも本に関わる仕事を続けるうちに、なるほどこれはすばらしい指針だなあ、と思うようになっていった。

入門書は、その対象を「理解」するために存在しているのではない。たとえば量子力学の入門書があったとして、たった数百ページの本で読者を「理解」にまで導くなんて、ぜったいに不可能だ。おそらく入門書の役割は、

量子力学「入門」

量子力学「概論」

さまざまの専門書

という「概論への扉」にある。これを感情レベルの話に置き換えるなら、「案外おもしろいな。もうちょっと本格的に勉強してみようかな」と思ってもらうことが、入門書のゴールだ。

そして「案外おもしろいな」と思ってもらうのに欠かせないのが、読了である。最後まで読み切ること。「わかる」「わからない」はともかく、なんとか読み切ること。その達成感が「案外おもしろいな」には欠かせず、文章の平易さやおもしろさは読了への促進剤にすぎない。

となれば「薄さ」は大切で、しかも大事なことを短いことばで過不足なく伝えるためには、対象への並々ならぬ理解が必要となる。

結果、「偉い学者の、薄い本」というのは入口探しにおいてかなりの妥当性を持った基準になるのではないかと思うのだ。


ついつい「厚い本」を書きたくなってしまう自分、いまも気をつけないと文章がどんどん伸びていくのだけど、ぎりぎりまで薄くする意識は持っておきたいなあ、と思うのである。