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自分に似合う服を見つける。

こんなおれでも、あのころは。

ハードボイルドにあこがれていた時期があった。ハードボイルドな小説、とくに「冒険小説」と呼ばれるジャンルばかり読んでいた時期があった。ジャック・ヒギンスとか船戸与一とかの、傭兵だの特殊部隊員だの、IRAのテロリストだのが活躍する物騒な小説だ。紫煙をくゆらせ、酒精をあおり、踵を返す。そういう世界である。

読んでいればもちろん、自分もその世界に染まっていく。いや、軍事の専門家をめざすとか、外国人部隊に志願するとかの方面ではなく、ただただハードボイルドな男をめざし、振る舞いを身につけていく。うまいとも思わないバーボンを、ひたすらストレートで飲むような。巷の流行りに背を向けて、ひとり紫煙をくゆらせるような。丈の合わないロングコートの襟を立て、傘も差さずに雨道を歩いていくような。

ところが20代の前半、くらいだっただろうか。そういう一連の「ハードボイルドしぐさ」を、パタリとやめた。

そもそもが似合わないし、やっててたのしくもない。ハードボイルドな自分に酔える瞬間はあっても、どこか二日酔いのような後遺症が残る。どんなにがんばっても「おれ」は「俺」にならず、スニーカーを履いた「ぼく」のままなのである。

もちろんいまでもハードボイルドな主人公を見て、かっこいいと思う気持ちはある。けれど、自分がなろうとは思わないし、なれるとも思わない。あこがれをいちいちなぞって生きる人生は、それはそれでつらいのだ。


自分に似合う服を見つける。サイズの合う、着心地のいい、自分に無理のない服を選んで、無理をしない自分で過ごす。服を「振る舞い」まで包括した自己像のメタファーだとした場合、これはとても大事なしあわせの法則だと思うのだ。