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雨降りの電車で考えた大根の話。

雨が降っている。朝からずっと、雨が降っている。

雨降りの地下鉄に乗りこむと、モワっと瞬間、独特の匂いに包まれる。平熱のサウナみたいに高い湿度。やたら生々しく吐き出される老若男女の呼気。人の数だけ持ち込まれたびしょびしょの傘。ぬるい人肌で温められる衣服の微妙な生臭さ。地下鉄だというのにぼんやり薄暗い車内に充満する、人びとの不快感。

次の駅に到着すると、一瞬だけさわやかな風が入る。密閉された車内に新鮮な空気が入り込む。ところがそれも扉が閉まって発車すれば、もとの空気に戻ってしまう。たとえ雨の日を好いている人であっても、雨の電車(ことに満員電車)は嫌いなのではなかろうか。……みたいなことを考えながら電車に乗っていた。

ならば、と思う。

たとえば映画で、テレビドラマで、登場人物の「なんとなく嫌な気持ち」を表現したいときは、雨の電車を舞台にすればいいのではないか。

役者さんに、わざわざ不愉快そうな顔をしてもらう必要はない。だれかの傘が顔に当たったり、「もぅー、おろしたての靴がびしょ濡れ」なんて白々しいセリフを言わせる必要はない。ただ、満員気味の車内と、地味に濡れたみんなの服と、おじさんたちの呼気で曇る窓ガラスと、若者が背負うびしょびしょのバックパックと、傘からしたたる雨水と、という具合に「主人公の目に映るもの」をつないでいけば、それで十分「なんとなく嫌な気持ち」は伝わるだろう。


以前、ある演出家さんが「映画やドラマで泣く役者さんは、みんな嘘の演技をしている」と語っていた。ほとんどの役者さんは人目もはばからずに泣くものだけど、実際の生活者は「思わず涙が出てくる」自分と「泣きたくない」「泣いている姿を人に見られたくない」と考える自分とが葛藤する中、泣いているのだと。なので人前でおいおい泣く演技は、本来の「泣く」から大きく離れているというのだ。

言われてみればたしかにそうで、たとえば文章のなかでも人は「彼のことばを聞いたぼくは、涙が止まらなかった」みたいなことを平気で書いてしまったりする。「いやいや、止まるだろ涙」というツッコミがあるのはもちろん、泣くとか怒るとかの表出を、あまりにも安易な道具として、その意味や心的葛藤のプロセスも考えないまま使っていることが往々にしてあるのだ、これはぼくも含めて。

もしもおいおい泣くだけの演技を大根役者のそれと呼ぶのだとすれば、大根演技の文章、というのもあるように思うのである。