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ページの裏側を読むように。

ゴールデンウィークと書いてはいけない。

そう教わったのは、週刊誌で仕事をしていたときのことだった。なんの記事で、どういう文脈だったかは忘れたもののぼくは、原稿のなかに「ゴールデンウィークは〜」とか「ゴールデンウィークの〜」と書いていた。すると編集のおじさんから「大型連休」と直しが入った。いやいや、いまどきみんなゴールデンウィークって言ってますよ、と思ったものの、これは映画業界がつくったキャンペーン用語であって、新聞社やNHKでは「大型連休」と呼ぶのだ、と教えてもらった。

自分の無知を恥じるには、知らないことが多すぎる若造だった。この仕事をしていると毎日のように「知らないこと」に触れる。なので自分がゴールデンウィークの由来を知らないことに、さほどの恥ずかしさは感じなかった。そしておじさんの博学に驚く自分も、そこにはいなかった。おじさんとはこちらの知らないことを知っているものであり、とくに編集者ともなれば雑学を含めたさまざまを知っていて当たり前だ、くらいに思っていた。

おどろき、また情けなく感じたのは「新聞社やNHKでは(ゴールデンウィークと呼ばず)大型連休と呼ぶ」というくだりだった。

新聞は読んでいる。NHKだって見ている。そしてたしかに「大型連休」ということばの存在も、よく知っている。なのにその法則性というか、報じるにあたってのルールというか、彼らがなにを選んでなにを選んでいないかについて、まったく無頓着だった自分が、情けなかった。読んでいるようで、また聞いているようで、実際にはなにも読めていないし聞けてもいない。その恥ずかしさに身悶えした。

もちろんこれは報道機関におけるルールであって、日本語としての正誤とはまるで関係のない話である。ことば狩りのような真似をする必要もなく、ぼくも日常ではゴールデンウィークと言うし、メールやソーシャルメディアでは「GW」と書いたりもする。

けれど「大型連休」という無骨なことばを使う人たちがいて、そこには使うだけの理由があるはずで、その意図や内在的ガイドラインを想像する習慣、これは読み書きを仕事にする人間にとってぜったいに忘れちゃならんことだよなあ、と思わされたのである。

書いてあることを読む。書かれなかったことを読む。書かれなかった理由を考える。行間を読むのではなく、ページの裏側を読むように。