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「計算する生命」 森田真生

新潮文庫  新潮社

蟹ブックスで購入。
(2024 01/13)

第1章「わかる」と「操る」


昨夜ちょっとだけ読む。まずは数の理解(指(デジタルの語源)を折って数える…人間の脳処理からすれば、手の指5本をまとめて動かす方が、1本だけ動かすより自動でできる運動なのだという)と数の歴史。

 計算において、自分が何をやっているのかを「わかる」にこしたことはない。だが、まだ意味が「わからないまま」でも、人は物や記号を「操る」ことができる。まだ意味のない方へと認識を伸ばしていくためには、あえて「操る」ための規則に身を委ねてみることが、ときに必要になる。このとき、「わかる」という経験は、後から遅れてやってくるのだ。
(p22-23)


前に読んだ「ヴァレリーの哲学」の伊藤亜紗氏の別の本で、ピアノとかの例で同じようなことを言ってたような。
(もう一箇所どこか引用したかった(計算能力の辺り)けど…)

今日の分。

 計算は本来、頭のなかでするものではなかった。人間と数のかかわりの歴史は、石や粘土、あるいは砂や紙など、それを支える「物」との関係にいつも彩られていた。物を手で掴んで動かさなくても、ただ数字を書くだけで計算ができるようになるのは、計算用の数字、すなわち「算用数字」が普及した後だ。
(p24)


ここでいう「算用数字」は「0、1、2…」の表記を指す。元々人間はモノを触って操る方が(純粋な思考より)得意な動物(ではない動物などいるのか?)。
そのあとは算用数字の歴史。
(2024 01/15)

第1章終わりまで。

 だれかが好んで、根号のなかに負数が入ってきたのではなかった。数学における認識の拡張は、決して人間の思い通りに進みだけではない。三次方程式を解くための規則に従い、地道に計算をしてみた結果、負数は根号に入ってきてしまったのである。それがどれほど不可解で、不都合であったとしても、付き合い続けてみた時間の果てに、虚数もやがて複素平面上の点として、れっきとした意味を帯びるようになった。
 計算によって招き入れられた不可解なものの訪問をゆるし、それと粘り強く付き合い続けること。そうして、人の認識の届く範囲は、少しずつ更新されてきたのである。
(p53)


マイナス1をかけると正反逆になって絶対値はそのまま。数直線上で考えると、-1かけると数直線を180度回して反対側に移る。ならば半分回転したところで運動を止めたら、それが虚数…こうして複素数のガウス座標が出来上がる。
第1章「わかる」と「操る」。人間の発達でよく起こるのは、「操る」ことができるのに「わかる」ができないということ。例えば、上のp53の文で出てきた三次方程式の解の公式には「操る」ことができる根号のなかの負数が出てきている。それはその時点では、計算はできるけれど、それがどう位置づけられるのかはまだわからない。数直線からガウス座標に展開したところで気づくことができる。
…数学は変わり続ける…って、ドストエフスキーの「地下室の手記」の主人公に読ませておきたい。
(2024 01/17)

第2章「ユークリッド、デカルト、リーマン」


(実は昨晩読んだ分)
ユークリッド「原論」(紀元前300年くらい)を西欧で最初に取り入れたのは、実はイエズス会。クリストファー・クラヴィウス(1538-1612)。彼は、ユリウス暦からグレゴリオ暦へ変えた中心的人物でもある。イエズス会としては、多様性ではなく、永遠不変性を原論に見たのだろう。
このクラヴィウスのカリキュラムで学んだのがルネ・デカルト。彼はイエズス会のラフレーシュ学院に8年半通っていた。後に彼は、幾何学を作図によってではなく、代数によって普遍的に解くことを導入する。

 デカルトの『幾何学』が浸透していくなかで、作図によってではなく、数式を計算することで幾何学ができる、という考えが定着していく。幾何学という営みのあり方が、こうして徐々に書き換えられていったのである。
(p77)


続いてリーマン(ベルンハルト・リーマン(1826-1866))。

 リーマンはこのように、平面上の点の動的な対応として、関数を理解しようと提案した。関数を単なる式と見るのではなく、平面間の「写像」と捉える視点はいまでこそ常識だが、もとをたどればリーマンの独創なのである。
(p85)

 これまでただバラバラに存在しているだけのようであった関数たちが、複素数の領域まで視野を広げていくと、一つの調和した世界を織りなしていることがわかる。直観だけでは決して届かない場所に、関数たちの真の「居場所」があったのだと知り、心が躍った。
(p85)


下の文は森田氏の実体験。

 リーマンは、長さや角度、体積などを定義するための構造が与えられる前の一般的な「多様体」概念から出発し、そこに後から計量構造を添加していくことによって、具体的な空間を構成していくという、幾何学への新しいアプローチを構想するに至る。
(p92)


この本ざっと読んだだけで、この辺りの意味が自分にわかるわけはないけれど、空間という今まで自明だったものを問い直して再構成していこう、という傾向…だから「原論」の公準の一つ、「平行線は交わらない」が否定される空間も登場することになる。
(2024 01/22)

 日常における概念の安定性は、私たちが仮説の仮説性に無自覚であることの裏返しでもある。
(p98)

 数学は、単に与えられた概念から出発して推論を重ねていくだけの営みではないのだ。人は、既知の概念に潜む仮説性を暴き、そこから新たな概念を形成できる。数学はただ厳密で確実な認識を生むだけでなく、誰も知らなかった未知の概念を生み出していくことができるという意味で、きわめて創造的な活動なのである。
(p99)


リーマンに代表される19世紀数学は、デカルトの明晰さから新たな概念の問い直しと形成に変わってきた。

第3章「数がつくった言語」


まずはいきなりカント「純粋理性批判」。前章からの問い。認識の確実さと拡張性の両立はその中で「アプリオリな総合判断はどのようにして可能か」と問われる。総合判断とは、論理的手続き以外に何かを用いて拡張的に概念形成していくということで、カントによればその代表格が数学なのだという。カントは先の拡張性を促す「何か」を直観だとしたが、後の展開はここを批判していく。
次の節のフレーゲは論理学を日常言語ではない「概念記法」を書いていく。そこでは「主語-述語」ではなく「項と関数」という見方をとる。関数はここでは「項とそれに対する値とを一意的に対応づける対応の法則」となり数式以外にも応用できる。前章のリーマンの複素関数の見方もそこに入る。

 何しろ、直観に依拠することなくどれほど豊かな数学を生み出せるかを、同時代の数学がまざまざと物語っていたからだ。数それ自体も、直観に依拠することなく、論理だけによって基礎付けられるのではないか。
(p119)


カント流の「直観」を削ぎ落としていく…20世紀哲学の論理実証主義はこの方向の哲学側の動きだったのかも。
(2024 01/24)

 一つ一つの数を孤立させて意味を問うから、心理主義に陥る。孤立した個々の数の意味を問う代わりに、数は「文という脈略=文脈」において初めて意味を持つと理解すべきなのだ。これが、「文脈原理」と呼ばれる、フレーゲのこの後の探究を導く指針だ。
(p137)


フレーゲのこうした点を、マイケル・ダメットは、いわゆる「言語論的展開」の先駆を見ている。
ただ、ほぼ同時に同様な研究に取り組んでいたバートランド・ラッセルから手紙が届く…そこには深く共感するが、「難点に逢着した」とある。それはフレーゲが数を定義するために用いた「概念の外延」。ラッセルによれば、「概念」から「概念の外延」への無闇な移行は矛盾を引き起こす、という。これがラッセルのパラドクス。

 デカルトやカントにとって、思考の場はあくまで人間の「意識」にあったが、当時流行の心理主義を嫌ったフレーゲは、内面的な意識ではなく、言語という公共的なリソースの上で、人間思考の本性を分析する道を開いた。ここに、「心」を「内面」から解放し、他者と共有可能な外部へと開く発想の種子が蒔かれた。
(p147)


ここに人工知能研究の緖が開かれた。そこで…

第4章「計算する生命」

 その過程で、数学的思考を分析する場を、人間の意識から言語へと移行させた。…(中略)…必要なのは、適切な言語とこれを運用するための規則だ-このようにフレーゲは考えたのである。
(p154)


ここを原点として、先のラッセル、そしてホワイトヘッド、ヒルベルト、ゲーデルへと受け継がれる系譜があり、その先にチューリングがいるという。
哲学者ヒューバート・ドレイファス(1929-2017)は、人工知能研究の初期の道程が、今まで見てきたデカルト-カント-フレーゲという「伝統的合理主義哲学」の道筋を辿る「再発明」となった、そしてフレーゲの後、壁に突き合ったように、人工知能研究もおそらく壁に当たるだろうと言っている。

続いては(またもや)ヴィトゲンシュタイン。彼もフレーゲを師として、青年の頃面会してやり込められた時から書簡のやりとりをしていた。が、そんなフレーゲも「論理哲学論考」は理解できなかったらしく、ヴィトゲンシュタインは落胆したという。彼は山奥の学校教師を勤め(熱心に勤めていたが、たまに暴走して体罰などしたという)、死後まとめられた「哲学探究」はこれまで必要要素だった「規則」を問うていく。

 「『規則に従う』とは一つの実践なのである。そして規則に従っていると思うことは、規則に従うことではない。それゆえ、人は『私的に』規則に従うことはできない」
(p171)


ここの「規則に従う」と「規則に従っていると思う」は、この本はじめに出てきた、操るとわかると対応しているのか。とにかくこうなるとフレーゲ流の言語は疑問に付されることになる…

続いてはブルックス。

 ブルックスはかくして、生命らしい知能を実現するためには「身体」が不可欠であること、そして、知能は環境や文脈から切り離して考えるべきものではなく、「状況に埋め込まれた」ものとして理解されるべきであると看破した。そうして彼は、既存の人工知能研究の流れに、「身体性」と「状況性」という二つの大きな洞察をもたらしたのである。
(p180)


このロドニー・ブルックス(1954-)はオーストラリアのアデレード生まれ。何より今では、掃除ロボット「ルンバ」の生みの親ということで知られている。

 あらかじめ固定された問題を解決するだけでなく、環境に埋め込まれた身体を用いて、変動し続ける状況に対応しながら。柔軟に、しなやかに、予測不可能な世界に在り続けること。それこそが、人間、そしてあらゆる生物にとって、もっとも切実な仕事だという洞察がここに芽生える。
(p182)


知能や生命の隠喩として「計算」が正しい概念と言えるのかどうか。他の概念の方が隠喩として正しいかもしれない、とブルックスは考えている。
(2024 01/25)

今日読み終え。第4章の残りと終章。意外にそこより、あとがきと解説が長かった…

 耳の研究には、大きく二つの道筋があり得る。一つは、耳の解剖学的構造を明らかにした上で、それが耳全体の働きにどう寄与するかを問うアプローチ。もう一つは逆に、耳の働きから出発して、「どのような耳の構造があれば、この機能が実現できるか」と、逆向きにたどっていくアプローチである。
(p190)


リーマンは前者を総合的、後者を分析的と呼ぶ(なんか個人的なイメージとは逆の名付けだけど、古代ギリシアからの用法なので)。リーマンは前者の向きの研究をしたヘルムホルツが、耳小骨が小さな音を発する、と恣意的な仮説をしのびこませたことを批判する。自分が思ったのは、後者を取った場合、耳は音を聴く構造体である、と仮定してしまうと、実際に耳は身体の傾きを感知する機能があるが、それを考慮に入れなそう(というか、身体のほとんどは偶然あるものをいろいろ利用していったものなので、そういう言ってしまえば「無駄」が相当ある)ということ。もちろん双方の突き合わせが重要なのだが。

終章「計算と生命の雑種」


ティモシー・モートン(1968-)の「ハイパーオブジェクト」…人間に比べ、時間的、空間的に圧倒的な広がりをもつ対象…森田氏はこの章を書いている時、この人の著作をずっと読んでいたという。

 全貌が見わたせないほど巨大で、にもかかわらず身体に、あるいは意識にぴたりと張りついて離れないこうしたものたちが、人間中心主義を機能不全に追い込んでいるとモートンは説く。ウイルスに粘膜を侵され、うだる夏の暑さに皮膚を焼かれながら、私たちは人間が、いかに人間でないものたちと深く雑じり合ってしまっているかをあらためて思い知らされている。
(p208)


続いてはウンベルト・マトゥラーナ(1928-2021)、フランシスコ・ヴァレラ(1946-2001)…そう「知恵の樹」の。彼は最初、刺激と神経系の反応には一対一の対応があると仮定していた。しかし観察結果はそれに反していた。

 そこで彼は、発想を大胆に変えてみることにした。ハトの網膜と神経系は、ハトと独立にある外界を再現しようとしているのではなく、むしろハトにとっての色世界を生成するシステムなのではないか。
(p214)


生命が他律的ではなく自律的である、という認識はここから生まれた。

 意味や仕組みを問わずとも、計算の結果さえ役に立つなら、それでいいではないかという風潮も広がっている。
 だが、意味や理解を伴うことのないまま、計算が現実に介入するとき、私たちは知らず知らずのうちに他律化していく。
(p218)


こうした危険性を指摘したものとして、キャシー・オニールの「数学破壊兵器」という本を挙げている。そこには様々なアルゴリズムに潜り込んでいる先入観や偏見を事例とともに紹介している。こうした統計集計結果は一見「客観的」と思われるだけに、この本はチェックしておきたい。
最後に、文庫版あとがきから、著者に大きな影響を与えたという池上高志氏の話から。

 本当に何かをわかるためには、自分のわかりかたそのものを作らなければならない。探究には、それぞれ自分の「スタイル」があってしかるべきなのだ。
(p231)


この自分の「スタイル」は…たぶんまだないままなのだろう…
解説は下西風澄氏。京都の鹿谷庵と名付けた森田氏の自宅の庭について書かれているのが印象的。
(2024 01/26)

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