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「永遠のファシズム」 ウンベルト・エーコ

和田忠彦 訳  岩波現代文庫  岩波書店

つまずく書店ホォルで購入。


目次


戦争を考える
永遠のファシズム
新聞について
他人が登場するとき
移住、寛容そして堪えがたいもの
[解説]モラル、その隠れた使用法
少年ウンベルトの自由と解放を継いで-「現代文庫版訳者あとがき」にかえて-

「戦争を考える」

 現代の戦争は、チェス・ゲームとはいっても、対戦相手の両者がともに(同じネットワーク上で)自分の色の駒(ゲームは白黒ではなく、単一色だ)を操り取ってゆくものだ。それは自分を食べるゲームなのだ。
(p18)

 知識人の役割は、つねに(起こりうる事態に対し)まえもって、あるいは(起きた事態に対し)あとから行動することだ。いままさに起こりつつあることに対しては、余程のことがないかぎり行動するものではない。
(p22)


だから、コジモは樹上で生活し続けたのだ…とつながる。コジモはカルヴィーノの「木のぼり男爵」の主人公。イタリアではこの小説はカルヴィーノの知識人論としても読まれている…でも、ついに(?)日本においては、「知識人」という言葉は使われなくなったね…あるのは「専門家」だけ…

 重さがある以上垂れ下がるものであり、垂れ下がるものである以上なにかに依存する…それでも下降することを望むものだ。
(p23 カルロ・ミケルシュテッテルの言葉)


このカルロ・ミケルシュテッテル(1887-1910)という詩人は、イタリア未来派と対立した雑誌「ヴォーチェ」に依った詩人だという。その自死後、刊行された評論集の一冊「説得と修辞」からの引用だという。イタリアの詩人もまだまだ知らない人多し。カルヴィーノの論考に反し、時勢はどんどん「重く」なっている…
この「戦争を考える」という論考は湾岸戦争時(1991)に雑誌に発表されたもの。
(2023 09/11)

「永遠のファシズム」


アメリカの学生に向けた講演から。

 ファシズムには、いかなる精髄もなく、単独の本質さえありません。ファシズムは〈ファジー〉な全体主義だったのです。ファシズムは一枚岩のイデオロギーではなく、むしろ多様な政治・哲学思想のコラージュであり、矛盾の集合体でした。
(p40)

 それは「秩序だったまとまりのなさ」とでもいうべき、構造化された混乱でした。哲学的にみれば、ファシズムは、いたるところで蝶番が外れていましたが、情動的側面からみれば、いくつかの原型に揺るぎなく結びついていたのです。
(p45)


ナチスの思想(一枚岩の思想)とは異なる、「元祖全体主義」のファシズムの内実。この後、「原ファシズム」(これがこの本の書名ともなっている「永遠のファシズム」))の要素を14取り上げている。これらのうち、いくつか当てはまればファシズム的社会になり得る、という。
(2023 09/12)

「永遠のファシズム」冒頭には、戦中から「解放」までの「利発な少年」だったエーコの回想がある。この辺、「女王ロアーナ、神秘の炎」に、ほぼ同じ年代生まれの主人公を通して書かれている、という。

「新聞について」

…最後の一文。

 これは、もっと世界を見てほしい、鏡をながめることは控えてほしい、という、新聞と、そして政界へむけた勧告のことばです。
(p114-115)


イタリア上院議員と主要新聞編集長を交えたセミナーでの言葉。自己撞着に陥っている西欧のジャーナリズムより、そこから遠く離れたフィジーの新聞が優れている、とエーコは逆説的に述べる。

「他人が登場するとき」


これはマルティーニ大司教との往復書簡企画から。ここでのエーコの立場は、カトリックの教育を受け、しかしその後他の宗教や無神論の立場を知った、というところから来ている。

 信仰を持たない者は、だれもかれを高みから観る者などいないと考えていて、したがって-まさにこのために-赦しをあたえる〈何ものか〉すらいないと知っているのです。悪をなしたことを知っているなら、かれの孤独は無限のものとなるでしょう。
(p132)

 人間が不器用な偶然の過ちによって地上に現れ、死ぬ運命にあるばかりか、その認識を持つことを余儀なくされ、そのためにあらゆる動物のなかでもっとも不完全なものである…(中略)…と。このとき人間は、死を待つ勇気を得るため、かならずや宗教的動物になるはずです。そして、模範的なイメージや説明とモデルを人間にもたらすことのできる物語をつくろうと心から願うでしょう。
(p134)


そこに他者が登場する。他者の視線が無ければ宗教も倫理も存在し得ない。

「移住、寛容そして堪えがたいもの」

 古代ローマ文明は混血の文明だった。人種主義者は、だから堕落したのだと言うかもしれない。だがそのために五百年の歳月を必要としたのだ。わたしにはこれが、わたしたちが未来のための計画を実行可能にする時間のはばに思える。
(p148)


古代ローマで起こった混血が、来るべき千年紀(この文章は1997年発表)に起こる、とエーコは考えている。

 どこの国でもいいが、その国の人びとを信用してはいけないと家に帰って主張するには、空港でスーツケースを盗まれるだけで充分、というのだから。
 金持ちは人種主義の教義を生み出したかもしれないが、貧しい人びとは、それを実践に、危険極まりない実践にうつすのである。
(p156)


この時期、アルバニアから1万2千人もの人々がやってきた。その中の一人でも泥棒や娼婦になった者がいるならば(そういった人も存在する)、アルバニア人全員が泥棒と娼婦ということになってしまう。

 プリブケ事件における不明瞭な要求として不快にさせられるのは、自分たちがその決定からいまだに遠いところにいると気づいているからだ。老人も若者も、しかもそれはイタリア人のみにとどまらず、だれもが手を引いてしまった。法律があるのだから、このあわれな男の始末は法廷に任せようと。
(p166)


プリブケ事件とは、1995年に逃亡先のアルゼンチンから移送されてきた、1944年にローマ近郊の洞窟でユダヤ人75人を含む市民335人を虐殺したナチス将校の一人プリブケの扱いを巡るイタリア国内の動揺。タイトルにある「堪えがたいもの」とは、この場合、虐殺自体を指すのか、それとも誰もその事実を真に受け入れようとしない一般市民の心情を指すのか。
(2023 09/16)

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