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「藩とは何か 「江戸の泰平」はいかに誕生したか」 藤田達生

中公新書  中央公論新社

藩の始まり

100ページくらいまでざっと読んだ。
江戸初期の藩の成立を検討した本。その時代は、相次ぐ戦争で国土が荒廃していた危機的な状態だった。そこに新たに沖積平野の真ん中に城を築き、城下町を整備し、それを養う農村を作っていくという「藩」が形成される。
著者は、伊勢津の藤堂家と近江彦根の井伊家を藩の始まりだとしている。中世以来の諸勢力による直接統治を否定し、国替(これは藩とセット)も多い。
土地と人民は公のものという思想(これは信長辺りから続く、この思想の浸透により、江戸時代を通して、経済的に貧窮していた藩が多数だったが、(中世のように)統治権を売却する家というのは一つも出なかった)が藩を産む。国替の時は、家臣団全て一緒に行動し、逆にそこに農民がついていくことを禁じる(士農分離)。

関ヶ原以降も、家康は秀頼には形の上で臣従関係にあり、西国には福島正則などの秀吉直系の大名を加増するだけだった。しかし、秀頼の二条城訪問の時期には、先の津藩と彦根藩を先駆けとして、篠山や姫路など秀頼包囲網を作り始める。
その後は藤堂高虎について詳しく。彼は近江甲良郡生まれ。初陣は姉川の戦い(浅井方)。その後変遷を経て、豊臣秀長、秀吉政権を支えた実弟の元で働き、大和郡山での築城術(故郷甲良郡の大工の伝統と同じく近江の穴太衆と大和の大工(ここに後の小堀遠州も入ってくる))、朝廷との結びつきを得る。今治城は最初に述べた沖積平野の真ん中の城の先駆け。
(2024 02/04)

津城下町整備

藤堂高虎続き…の前に、著者藤田達生氏インタビューから(中央公論新社サイトから)。
藤田達生氏は愛媛県生まれ、現在(少なくともこの本が出た当時)は三重大学で教えている。だから(でもないけど)高虎の史料には強いわけだ…といっても、藤田氏の本領はどちらかというと織豊期。今、歴史学では主流の信長はどちらかというと中世の人間だった、という考えに反論する立場(それはこの本でも随所に出てくる)。

で、高虎…というか津の城下町整備。伊勢・伊賀それぞれ一つずつ(津城、上野城)に本城。あとは支藩の名張と久居。前領地の今治では隣国(加藤嘉明)との緊張関係の為に支城が多かったが、ここでは一国一城令に先んじるように。
入城当時は城の中にも武家屋敷が見られたが、城の周りに町屋と武家屋敷を配置した結果、城内部には有力家臣の屋敷のみが残った。そして元々は城の東側を通っていた伊勢街道を、城下町の直前で伊勢別街道と合流させて、それから城下町北側の津八幡宮の前で直角に曲がらせて城下町を通過させるようにした。この津八幡宮の祭礼が、前に津に見に行った祭礼絵巻。朝鮮通信使を模した唐人踊りがある祭礼。この祭礼の成立をもって、城下町整備が終了したという考えは納得感がある。
(2024 02/06)

牢人取り入れと地方巧者

江戸初期には、京や大坂始めとして牢人が多くいて、そこから各藩に取り入れられることも多かった。藤堂高虎は、秀長の四国征伐の時からの付き合いで、長宗我部家の牢人を召し抱えた(関ヶ原後に長宗我部家の本領安堵の為に奔走するが失敗している)し、譜代の出雲松平家の例も同じ。大幅加増された家は行政官僚の数も増やさなければならないから。

続いて地方巧者。藤堂藩の西島八兵衛や松山藩の足立重信など。前者は高松藩生駒家の藩政に参画したり、帰藩しても灌漑用水や新田開発などに取り組んだ。後者は伊予川の流路を変えて堤防を築いたり(後にこの川は重信川と呼ばれる)。前者は今の言葉で言うと、出向とか家臣レンタルとか?こういう事例は知らなかったけれど、他でも一般的に行われていたのか(たぶんそうだろう)。
(2024 02/07)

公武合体政権構想と幕藩体制の思想


とりあえず読み終えた。
家康や秀忠の時代には、公武合体政権、大坂幕府構想というのもあったらしい。これは、西国への譜代・親藩大名の配置の流れの総決算のような性格で、朝廷や西国外様大名、それから東アジア全体を監視する体制になる。小堀遠州や藤堂高虎などは、それを実行に移そうとしていたが、結局、徳川和子の男子が天皇にならなかったこと、天皇が院政を敷いたことなどにより実現できず。藤田氏はもしこれが実現していたら、西国雄藩の台頭も朝廷の動きも違うものになっていただろうと考えている。

家光、家綱にかけて藩の城下町の絵図幕府が管理し、将軍の代替わりの時に藩の領主権委譲と土地の下地がセットで行われるようになった。これが幕藩体制の完成となる。武断政治から文治政治への転換は、旧来は島原の乱(とは最近呼ばない?)やそれに続く寛永大飢饉によって起こったとされていたが、藤田氏の考えは既に信長の頃から預治思想が浸透して、悪政を行ったら返還すべきというのは広まっていたという。また、江戸時代の幕藩体制は同時に起こった中国の清の八旗制(譜代・親藩のみの幕藩体制に近い)とも共通し、これは連動した動きであるという研究もあるという。

「むすび」では、明治維新の地租改正での所有権の考えと課税の考えが、当時の特に地方の武士・農民・町人には程遠かったこと。それに関連して将来のコンパクトシティを考える上でも、所有権・制度の見直し、江戸期の再考も必要になると述べている。この辺は明治期の歴史研究や他の分野の動向も合わせて見ていきたい。
(2024 02/11)

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