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「白の闇」 ジョゼ・サラマーゴ

雨沢泰 訳 河出書房新社 河出文庫
ポルトガル語版からではなく、英語版からの重訳。原題は「見えないことの試み」。小説内容にストレートなタイトル。

見た目と見えない目


サラマーゴ「白の闇」の特徴の一つは、段落変えの少なさによりページが文字でほぼ覆われている、という見た目にある。

 なんにもない、まるで霧にまかれたか、ミルク色の海に落ちたようだ。
(p11-12)

サラマーゴの特徴(この作品だけではないらしい?)の一つに、会話文を鉤括弧抜きで、地の文に埋め込ませるというのがある。これまでもそうだったが、まだ「言った」とかはついていた。それがp13辺りからその符号すら抜け始める。


 いまは反対に、どこまでものっぺりとした、ひどく明るい白のなかへ投げ込まれていた。その白さは、たんに色のみならず、まさに生命と人間を、吸いこむというより呑みこんで、それらをいっそう見えなくしていた。
(p15)


黒の闇ではなく、白の闇。その意味はこの小説でたぶん繰り返し出てくるのだろう。
(2021 10/30)


 これがわれわれなんだな。半分は無関心、半分は悪意からできている。
(p47)


 やれやれ、失明は伝染しないものなんだ。死も伝染しません。われわれはいずれみな死にますが。
(p49)

医者の妻の眼は作者の眼

ぽつりぽつりと失明した人が現れる序盤を越え、隔離病棟(元精神病院)での集団隔離生活が始まる。患者を片方の翼に、彼らと接触した人々をもう片方の翼に入れ、それらが失明したら、患者翼に(接触者が追い出すように)入れる。逆は、あり得ない(接触者たちに拒否される)。
という仕掛けの小説舞台。その中で、唯一目が見えるのに、見えない振りをして入り込んだ医者の妻…


 いまはそれと違う光の存在を感じていた。それは夜が明けそめた微光の効果かもしれないし、ひょっとしたらついに眼を覆ったミルク色の海なのかもしれない。
(p76)


 わたしたちは世界からあまりに遠く離れたため、いずれ自分がだれであるかわからなくなり、名前すら思い出せなくなるに違いない。それに名前があったとしても、なんの役に立つというのか。
(p77)


ちょっと突飛だけど、コルタサルの「南部自動車道路」で渋滞にはまって道路で生活してから、その中では他の人を車種名で呼んでいたことを連想する。この病棟ではほぼ職業で呼ばれている(車泥棒と最初に失明した男はそういう説明がない)。


 医者の妻はここに来て初めて、のぞかれているとは夢にも知らないさまざまな人間たちのふるまいを、顕微鏡でじっと観察しているようだと思い、はっとした。これは卑しむべき汚らわしい行為ではないのか。ほかの人びとにわたしが見えないなら、わたしにだって見る権利はない、と医者の妻は心の裡でつぶやいた。
(p87)


医者の妻の眼は、作者サラマーゴの眼。とすれば、マンゾーニ「いいなづけ」のアッポンディオ司祭(だっけ)と同じ理由で、医者の妻の失明は物語が終わるまでないだろう。
ということは、サラマーゴ自身、作家という職業は「卑しむべき汚らわしい」と思っているのかもしれない。
(2021 11/04)

臭いの闇?


陰惨情景は今がピーク?
ついに、車泥棒から始まり、多くの人が兵士に撃たれる事態が起こる(100ページくらいのまだ序盤といってもいいくらいなところで)。撃っている兵士の方も、何らかの恐怖心で撃っているので、読んでいる側からすればどちらが失明しているのか、全員見えないのではないか、という気さえする(その証拠に兵士たちも次々失明する、彼らたちは(何故か)陸軍専用病院に入れられる)。


 一瞬、目が見えないことを忘れて、あとどれくらい距離があるのかと門のほうをふりかえり、やはり不透明な白に向かい合った。
(p99)


 医者はここがきっとこう見えるという光景を想像してみたが、やはりまぶしいくらいにきらめく白一色の世界であり、壁や床が白いかどうか知るすべはなかったので、光と白さがこの異臭を放っているのだというばかばかしい結論を思いついた。
(p120)


まだ医者の妻は失明していないが、シャベルを取りに行ったり、感染者(失明していない)棟の人に見られたり、いろいろな時に、本当は目が見えていることを疑われている。この辺も読み進めていく際の重要なポイント。
見える、とはどういうことなのだろうか。実は自分も失明している、とは全く可能性がないことなのか。
(2021 11/06)

語り手の変容と失明の意味


 人びとは、ひょこひょこと危なっかしげにハサミをふりながら、なくした肢を探しまわるカニのようだった。兵士たちはその朝兵舎で、連隊長から言われていた。この失明した患者の問題は、これから失明する人もふくめて、欺瞞的な人道主義を考慮することなく、その肉体をきれいに地上から消し去ることによってしか解決しない。
(p132)


食べ物の入ったコンテナを見つけて喜ぶ失明者たちの比喩を楽しんでいると、すぐ後の文章がその読者の気分に冷や水をかける。こうした効果はサラマーゴの段落分けを意識的に少なくした文体で鮮やかになる。
この連隊長の次に出てくる軍曹は、連隊長とは違って人道主義的な立場に立って物事を収集しようとしている。彼は果たして、医者の妻のような小説中の重要人物に成長するのかしないのか。


 物事はあらゆる面を考えると悪くなるものだ。
(p138)


この文章の後の「客観的に見ると」と語っているのは、一体誰なのだろう?


 将軍、これは世界でもっとも論理的な病気なのです。簡単に言えば、見えない眼が見える眼に見えなくなる病気を感染させるのです。
(p140)


解説にもあった文章。でも正直言うとまだ自分には判然としない。「見えない」が文字通りではなく、多少レトリックを持った意味なのだろうか。

先のp138でも出てきた語り手が微妙に変化する事象が次の章でも出てくる。


 こうした社会性をもつ行動をとる精神の在りようは、一朝一夕につくれるものではないし、ましてや自然発生的に生まれるものでもない。このケースを細かく見てみると、病室のいちばん奥にいる女による教育的はたらきかけが決定的な影響を及ぼしたようである。この女は眼科の医者と結婚しており、つねにこう語って倦むことがなかった。わたしたちがどうしても人間らしい暮らしができないなら、少なくとも動物的な暮らしにならないように力のかぎり頑張りましょう。医者の妻はその言葉をたびたびくりかえした…
(p149ー150)


ここで語っているのは、なんだかこの光景をスライドか何かで見せながら学生に話す先生みたいなイメージを持つ。しかし、イコール作者、でもないようだし…「この女」と今まで「医者の妻」と言い続けてきたのに初めて話題にするような言い方といい…で、自由間接話法的な台詞を通過し、次の文ではまた「医者の妻」に戻る。
(他にもここでは通奏に流れる作者サラマーゴの無神論的立場や、それにも関わらずただ一人見える、ということ以外の医者の妻についての特権的立場など、いろいろ読み取れる)
次は新たにこの病室にきた眼帯の老人が伝える「外の世界」の話から。


 失明の発症は広がりつづけた。それは一気にすべてのものを押し流す突然の洪水というよりも、知らないうちにあふれた荒れ狂う無数の細流のようだった。
(p156)


今までの失明の発症は、どちらかというと「白い闇の洪水」のような印象を持っていたので、このイメージは少し意外。このイメージで行くなら、失明の経緯も雨の日のガラス窓みたいに、雨粒から雨の筋が何本か垂れ、そして窓全体が濡れる、ように徐々に失明していく、という方が読み手にイメージが直結する。ではない、ということは、作者の狙いはべつにある、ということだ。

 恐怖から目が見えなくなるってことはあるわ、とサングラスの娘が言った。まさに真実の言葉です。それ以上の真実はありませんよ。われわれは失明したとたん目が見えなくなる。恐怖が目を見えなくするのです。恐怖が目をくらませつづけるのです。いま話しているのはだれです? と医者がたずねた。目の見えない男です、と声が答えた。ただのそういう男です。わたしたちは、それだからここにいるんです。すると黒い眼帯の老人が問いかけた。目を見えなくするためには、失明した人間が何人必要なのでしょうかな。
(p166)


医者と一緒に「だれです?」と聞きたくなる。また語り手の変化、しかもここでは、病室の外側ではなくその内部にいて他の人物と話している。確かに目が見えないからここにいるのだろうけれど、でも病室には実在していないようにも思える。これまでのところでもこの不思議な人物はひょっこり現れていたようにも思う。
「失明したとたん目が見えなくなる」ってトートロジーにも思えるけれど、こうした書き方をする以上、失明=目が見えなくなる、ではないのだろう。直前の娘の言葉を参考にするなら、失明=恐怖と考えられるが。
と、まとめようとしたら、また続いて、なんということを眼帯の老人は言っていることか。先の失明と目が見えなくなるの違いという点は、どちらも一個人での話なのに、人の数も違うのか…ここから、問題にしているのはある社会的事象であると思われるのだが、それは今は謎ということにしておこう。少なくとも、この老人も「この病気は論理的」だという前提があると思われる。
(2021 11/07)

眼が見えないからここにいる

 だが、われわれがここにいる理由を忘れるな。目が見えないんだ。ただ目が見えないから、ここにいるんだ。きれいごとが言えない、同情の言葉も持たない、目の見えない人間なんだ。もはや慈悲深い、絵のような、幼い盲目の孤児たちの世界じゃない。いまわれわれがいるのは、がさつで残酷で無情な、目の見えない人びとの王国だ。
(p170)


ここのところも、作者サラマーゴの無神論的背景が見られる箇所。
続いては、目の見えない一団ではあるけれど、武装して金目のものをまき上げる、しかしその集団の中には前から目が見えない、よって点字を使った記述ができる男もいるらしい、という展開。


 兵士が門に近づいてきた。明かりに背を向けて立っているにもかかわらず、こちらを見ているのがわかった。たぶんそのとき男は、微動だにしない人影に気づいたに違いない。明かりがないので朧げではあるが、どうやら女はじかにすわり両腕で脚を抱きかかえ、あごを膝にのせているようだ。
(p195ー196)


「こちら」医者の妻を中心人物として描いている記述から、反転して「男」(兵士)、女(医者の妻)と書かれる、そこの書き手は誰なのか。
(2021 11/08)

とるにたらない会話


 二人はささやき声で話しつづけた。かわるがわる、たがいの髪にふれ、耳たぶに、唇にさわりながら。矛盾した言い方をするなら、それはとるにたらない会話でありながら、深く真剣な会話でもあった。あいだに横たわる男を無視した、共犯者同士のような短いやりとりだった。
(p219)


「二人」は医者の妻とサングラスの娘、「横たわる男」というのは娘のベットに入った医者。とにかくここで、医者の妻は、夫以外の人に「自分は目が見える」ということを伝える。
そして、この言い方は本来的に矛盾しているのだろうか? とるにたらない会話こそが、深く真剣な会話なのではないだろうか。
あと少し気になるのは、前の章辺りで出てきた巻き上げ軍団、ここではついに「女を差し出せ」と言い放つのだが…自分的には、こういう非常時でそれ故に平準化された世界では、このような目立ったフリーライダーは周りからすぐに弾かれ叩きのめされるのでは、と思うのだが。このグループ内の抗争も含め。それは一つは災害時ユートピア的な起源から、もう一つは万人による万人の抗争的な起源から。

あと、追加で、ここら辺で「素性の知らない女」というのが出てくる。これは…前に出てきた不明の人物は男らしいし…
(2021 11/10)

 あらゆることを言われてきた女たちのために、男たちは言葉を探さなければならなかった。それができないことは、とっくにわかっていたのである。
(p255)


こういう作品で必ずある、女たちの自己犠牲としてのならず者へ貢ぎにいく章。医者の妻がならず者の首領を殺して、第二病室の女を助け(この女は医者の妻に対して「あなたについていきます」と言う)、ならず者の会計係だった元々目が見えない男(新たな首領的存在となる)が医者の妻の目が見えるのを見破り、医者夫婦と黒い眼帯の老人(軍師の風格を持つ)たちがまとまってならず者襲撃に向かう…というところまで。p255の文は、ここだけ歴史全体を見据えた言葉になるのか。
(2021 11/12)

分け入つても分け入つても白の闇


 中庭に面した窓からその日最後の、いまにも死に絶えそうな灰色の光が差しこんでいたが、みるみるうちに日は暮れて、今にも底知れぬ闇に変わっていた。
(p256)


精神病院に閉じ込められて以降、いやひょっとしたら物語が始まって以降かもしれないが、今までなかった自然描写の文。目が見えないのだからこんな描写の必要性もないということなのか。単なる描写文ではなく、これから起こることの象徴にもなっているとも思われるし。
さて、一人以外には見えていないこのような光景の中で行われた、ならず者部屋への突撃作戦は死者2名を出す失敗に終わったが、ならず者の方でも変化は起きていて…


 権力を簒奪するためには、拳銃を持つだけで充分だと思いこんだ会計係の深刻な過ちが招いたことだった。結果は正反対で、会計係が拳銃を撃つたびにそれが裏目にでた。言いかえれば、拳銃を撃つごとに、すこしずつ権威が失われていったのである。弾薬を使いきったときにどうなるか、見ものだった。
(p261)


読んでいた時には、この部分に疑問が湧いた。が、こうやってもう一度書いてみると少しずつわかり始めてくる。
一方、死体を運んできた襲撃隊の方は…


 そうこうするうちに、月があらわれた。前庭にのぞむ玄関ホールの扉から、ぼんやりとした拡散した光が流れこみ、しだいに明るさを増していった。床に横たわる体のうち、ふたつは死体であり、残りはまだ生きている人びとのものだった。その体がだんだん光に照らされて、量感や、形や、特徴や、顔をあらわしていった。名状しがたい恐怖の重みもすべてそこにあった。
(p261)


情景は悲惨だけれども、美しい描写。何かはわからないけれど、過去のなんらかの情景が、陰画化された引用になっていそうな気がする。
そんな中、医者の妻に「どこまでもついていく」と言った女は、ある決意をする。ライターを持っていたことを思い出し、一人、ならず者の部屋の前のバリゲートへ向かう。


 玄関ホールをよこぎると、傾いた月の光がななめに差して、大桶のミルクをぶちまけたように床のタイルを染めていた。女は反対の棟に入っており、また廊下を進んでいった。目的地はいちばん奥だった。一本道だから、まちがえようはない。
(p264)


…あれ、自然描写多いなあ…陰惨な描写に気を取られてこれまで気づいてなかっただけか、p261の文のところにも書いたような過去と照応する場面でのみ発動する舞台装置のような機能なのか、あるいはここから突然増え始めているのか…
あとこの文で二つ。
「大桶のミルクをぶちまけたよう」という月の光の比喩。この作品読んでいる人にはこれは一つのことしか連想できない。ミルクの闇の失明から仮に開けても、またミルクの月の光なのか。作者は無神論者らしいけど、ここに描かれているのは(今のところは玉葱の皮、つまり宗教が白の闇で、そこから抜けてもまた白の闇…という理解にしておきます…)。
この女、この最後の場面では目が見えていたのでは疑惑。一本道だから、だけではないだろう。それと関連してp200のサングラスの娘の結膜炎が治っていたというのもあげられると思う。
で、この女がライター持って、ならず者の部屋前のベッドで作ったバリゲートに火をつけ、この女とならず者たちは焼け死に、ついには病棟全体に燃え広がり、射撃される危険性もある中、兵士たちに話そうとすると…外には誰もいなかった。たぶんずっと前から、兵士たち始めあらゆる人が失明していた…やはり、白い闇を剥いても白い闇だったのだ…


あとついでに、このサラマーゴの、会話記号もなく段落数も少ない密集した書き方。1980年の長編第三作「大地より立ちて」で確立されたという。アレンテージョ地方の農村一族の話で、そうした農民(ここ、「農業従事者」と書いてあるのも気になる)が口承で伝えてきたことを表すスタイルだったという。
(2021 11/14)

ソドムの街


 目の見えない人に、あなたは自由だ、世界を隔てていたドアをあけろ、と言ってみる。さあ行け、あなたは自由だと。目の見えない人は行こうとしない。道のまんなかで身動きもできずに立ちつくしている。
(p271)


 町では記憶が役に立たない。記憶はたんに場所の景色を思い浮かばせるだけで、そこに至る小道を知っているわけではないからだ。
(p271)


 わたしたちはこのことをきちんと知っておくべきだろう。運命は、どこかに至るまでに、たくさんの角を曲がるものだということを。
(p293)


火事になった精神病院を出て、町へ出て行くところから。小説的には第三部開始といったところか(では、第一部はどこで終わったの? たぶん、前庭で兵士たちが銃撃したところかな…そんなシーンあったよね…)。
これまで以上に聖書の場面を想定してそうな箇所が見受けられる。それは言うまでもなく反転した場面、ソドム的な都市。サラマーゴの無神論は全くの空白ではなく、おそらく聖書的世界観と反転した世界がねじ曲がって繋がっているような、そんなものではないかと思う。
(2021 11/15)

会話の共同体の電子雲


小説の流れ的には、医者夫婦のグループが各自の家を回ってみようということになり、まずサングラスの娘のアパートへ行ったところ。このアパートには娘の家族が住んでいた3階の下の階に老婆が隠れ住んでいただけ。娘の家族もどこかへ連れ去られていた。


 もう人生なんてないわ、どこにもね。それでもいまは生きてるじゃない? 聞いて、あなたはわたしよりたくさん知識がある。あなたに比べれたら、わたしなんか無知のかたまりよ。でも、ひとつだけ意見を言わせてもらえば、わたしたちは死んでるんだわ。死んでるから目が見えないの。別の言い方がよければ、こう言ってあげようか。目が見えないから死んでるの、それは同じことなのよ。
(p313)


医者の妻とサングラスの娘との会話…なんだけど、どこが誰の発言なのかが曖昧なまま。小説という肉声ではない制約を逆に役立てて口承の世界を作り上げるサラマーゴの手法の典型例。例えば「死んでるから目が見えないの」というのは、どっちが語っているのだろう。


 サングラスの娘を道に迷わせたのは、ほかの場面でも見てきたことだが、こういう悲劇的で、グロテスクで、絶望的な状況にあっても思い出してしまう彼女の想像力だった。
(p317)


「想像力」というのが考えさせられる(まだじっくりは考えてないけど)。「ほかの場合」とは小説冒頭部かな。


 たぶん、眼がなくても人間性はどうにか生きのびるだろうけど、でも、それは人間性ではなくなるわ。結果は目に見えてる。以前自分たちが人間的だと思ってきたように、自分たちのすることを人間的だと考えるのよ。
(p318)


人間性とは新たに書き換えられるもの、ということも興味深いが、ここ(グループ全体で話している)も誰が話しているのか明らかにしない手法が効果を出している。医者の妻が一人で話しているような気もするし、誰かが合いの手を入れているような気もする。ひょっとしたら、「、」で切れている箇所でも、話者の交代が起こっているのかも、とも思ったりもした(「でも、」の箇所とか)。

夢が人を探し求めて歩く


サングラスの娘の家から医者夫婦の家へ。途中、黒い眼帯の老人の家もあったのだが、狭い食糧もないと言っていたのでスルー。


 ならば、それがそのように起こり、それ以外には考えられないといったいどうしてわかったのか、人が疑問を持つのは当然だろう。その返答はこうである。あらゆる物語は天地創造の物語に似ている。だれもそこにはいないし、目撃者はどこにもいないのに、だれもが起こったことを知っているのだと。
(p330ー331)


サラマーゴは読者を煙に巻いて楽しんでいるのだろうか。聖書だって信憑性のない記述に満ち溢れているのだから、そこから派生したいまの物語にそれがないのは当然である、といったような。


 わたしたちの内側には名前のないなにかがあって、そのなにかがわたしたちなのよ。
(p344)


サングラスの娘の言葉。


 落ち着かない夜だった。始まりは漠然としてつかみどころがなく、夢は眠る人から眠る人へと渡り歩いた。夢はここでうろうろしたかと思うと、つぎはあそこに居すわり、新しい記憶、新しい秘密、新しい欲望をいっしょに持ってきた。眠る人たちがため息をついたり、つぶやいたりしたのはそのせいだった。この夢はわたしのじゃない、と。だが、夢はこう言い返した。おまえはおまえの夢など知らないだろう。
(p346ー347)


この小説の中で一番美しい文章かもしれない。
夢を主題にした作品はいろいろあるのだけれど、夢が主語になって歩き回るという表現はあまりないように思う。

最初に失明した男の家に行った、この夫婦と医者の妻。そこに住んでいたのは「作家」だった。彼も失明している中で、なんとかして書こうと、ペン先の筆圧で書いていた。そして客達に話を聞かせて欲しいと頼む。まあ、サラマーゴ自身だな(笑)。でなくても、そう思うと楽しい…


 この家はあなた方のものです、と作家が答えた。わたしはただの通りすがりにすぎません。
(p366)


ますます、サラマーゴだ…
口承の会話をそれだけそのまま切り出す手法も、この作家観によるものなのだろう。


 ひとつの組織だ。人体だってひとつの組織化された体系だよ。人体は組織を維持しつづけるかぎり生きられる。死は組織の解体の結果にすぎない。どうしたら、生きのびるために、目の見えない人びとの社会を組織化できるのかしら。自分たちの手で組織化するんだ。みずからを組織化するということは、ある意味で、眼を持ちはじめることだ。
(p369)


この小説のテーマを示せ、と言われたら、たぶんここかな。この定義で行くと、自分は全く目が見えていないし、目を持とうともしていない人間だなと思う。
(2021 11/17)

見えないことの試み、試論と二つの別解


 ここに一対の眼がある幸運を喜びましょう。最後に残った一対の眼なのです。そんなことは考えたくもありませんが、いつか消え失せるとしたら、そのときは人類とわれわれをつなぐ糸が切れることになります。そうなると、人はみな等しく目の見えない状態で、永遠に、宇宙のなかでそれぞれ切り離されたような気がするでしょう。
(p380)


医者夫婦の家に集まったグループは、医者の妻の朗読を聞いている。最後の医者の妻の目が失われたら、過去の人類の遺産とも永遠に切り離される。
教会に入った医者夫妻は、全ての彫像が目隠しされているのを発見する。


 彼(目隠しを実行した人物)は究極的に、神は見る眼を持つに値しない、と宣言するためにここに来たもっとも公正でもっとも急進的な人間なんだ
(p397)


この目隠しの彫像に溢れた教会の情景が、この小説世界の縮図であることは確かだと思うけど、ではこの「彼」がサラマーゴ自身なのか、サラマーゴ自身もそう宣言しているのか、については、重なる部分もあるのだろうが、かなり慎重に考えなくてはならない。今の自分的には、やはり最初に失明した男の家にいた「作家」こそがサラマーゴ自身だと思うのだが。


 本はけっしてぱたんと閉じられなかった。医者の妻が音をたてないように本を閉じるのは、夢見る人が眠りに入りかけていることがわかっているのを気どられないためだった。
(p402)


…この作品、最後の最後で皆の視力が戻っていく。そのきっかけというか通過儀礼は何か、とかなり気にして読んでいたのだが、直前の該当行為がこの朗読の場面。


 そのとき、とてつもない恐怖心で心が染められた。ある失明からまた別の失明へ移ったのではないだろうか。明るい失明のなかで生きてきたのに、今度は闇の失明に入りこんだのでは。
(p402ー403)


最初に失明した男の目が見える場面…なのに、その最初が「見えない」で始まるというのが巧みというかリアルに映る。見えない頃、お互いに愛し合っていることを確認した眼帯の老人と黒いサングラスの娘、彼女が二番目に視力を取り戻した時、彼女は老人の本来の風貌をつぶさに見た。さすがに嫌がるのかと思いきや、そのまま彼を受け止めた。これは「目が見えないおかげで真の人間を受け止めることができた」という逆説的なことか。


 わたしたちは目が見えなくなったんじゃない。わたしたちは目が見えないのよ。目が見えないのに、見ていると? 目が見える、目の見えない人びと。でも、見ていない。
(p408)


これまで数カ所にあったこの手の文章。もう最後のページだから、ここで書いておこう。

あとは、おまけ。
疑惑その1 上のp408の文とか見ると、ひょっとして実は全く失明などしていなくて、ただ何かの拍子で見える角度?を外れたがための勘違いだった。とか。
疑惑その2 もし、失明から戻った人びとの視野が、これまでの人間のものとは違って別の構造のための視野にすり変わっていたら、どうだろう。
(2021 11/18)

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