見出し画像

「落葉 他12篇」 ガブリエル・ガルシア=マルケス

高見英一・桑名一博・井上義一 訳  ガルシア=マルケス全小説  新潮社

マルケス初期短編集、書き出し文から


昨日からマルケス全小説「落葉」を読み始め。毎日通勤時に持っていくか、夜ちびちびいくかは…微妙なところ。また以前文庫で読んだ「青い目の犬」とかなり被るが、まあ、自伝「生きて、語り伝える」経過後の再読ということで。

その「生きて、語り伝える」で、マルケスは小説の最初の一文にかなりの時間を費やすと言っていた。というわけで、まずはそこから。

 まるで腫瘍か癌のようにうずいていた彼女の美貌は、気がつくと、すっかり消え失せていた。
(p25)


小説全体の世界観を表すのと、日常世界からふと違う世界に引き込むきっかけとしての意外な表現。たぶんマルケスがカフカ「変身」から見出だした技量がここに見られる。
これは「エバは猫の中に」という短編の書き出し…これはまだ読んでいる途中…

その前の「三度目の諦め」というのが、マルケスの処女作。さっきも挙げた「変身」読んだ衝撃でこれを一気に書き上げた(20歳くらいの頃)。というわけで比べて(みなくてもいいけど)みると、どちらも内容も謎がいろいろ残る点では共通するけど、「変身」は起きている事態はかなり異常だけど家族の心情面ではなんとなく入り込め、「三度目の諦め」では事態はまだひょっとしたらと納得できるところもあるけど、家族の心情は入り込めない…そんな対比かな。
(2015 02/06)

「エバは猫の中に」


確か…金曜日に読んだ「エバは猫の中に」。これが二番目の作品というのが驚くくらい幻想的な居座りの悪い(笑)作品。前の「三度目の諦め」もそうだったけど、死んだのか生きてるのか読んでいるこっちがわからなく漂っている感じ。ラストは「百年の孤独」を思い出させる…というか、先取り?
こういう死と生を巡る幻想というテーマは、いかにも日本人作家好きそうなものなんだけど、どうだろう、技巧とスケールかな…
(2015 02/09)

兄弟と虫、その他


マルケス初期短編集から昨日は「死の向こう側」と「三人の夢遊病者の苦しみ」、「鏡の対話」という3編を。先の2編に比べても短め。テーマは相変わらず?死なのかな、という感じだけど、サブキーワードとして標題にも挙げたようなものを。
兄弟あるいは姉妹は、「エバは猫の中に」と、「死の向こう側」と「鏡の対話」に。
虫というか身体に入り込んでそれを融解していく病または何かの液体?はいろいろなところに現れる。
一方、昨日読んだ2番目はそういう親族があの屋敷の中にいたような…

この頃のマルケスは「生きて、語り伝える」で見る限り精力的に活動していてあんまり死とは接点ないような気がするのだが、やはり子供の頃のあの屋敷と聞かされた話に源泉はあるのだろう。
(2015 02/10)

アメリカ作家の影響と隣り合う別の世界


「落葉ーマルケス初期短編集」一昨日、昨日で5編ほど。マルケス自身が後にこの時期の作品を「文体練習」のようだ、と言っているように、実に様々な作風がある。
馬に蹴られた住み込みの黒人の少年を閉じこめる「ナボ」はフォークナーの世界だし、「六時に来た女」はヘミングウェイから影響受けているし。初期短編集の標題ともなった「青い目の犬」はその両方の世界の融合を狙ったのか。

とにかくこの時期のマルケスは技巧的に別々のもの(どちらかが霊的存在なことが多い)を一つの短編の中に溶け込ませようとしていたみたいで、「誰かが薔薇を荒らす」も先の「ナボ」と同じでそんな作品。後の作品にはこういう作風は(作品全体ではなく部分的に見れば)あまり感じられなかった気がするのだが…
(2015 02/13)

死についての文章


確か今読んでいるマルケスの初期短編集と被る「青い目の犬」の副題に「死についての短編」とかなんとかあったような気がする。初期にはかなり死の影が濃厚なマルケスからそんな文章を引く。

 その瞬間彼は、身体の重さと、罪の重さと、年齢の重さを一緒にした、自分の全重量をさとった。
(p159)


「土曜日の次の日」より。ここの「彼」は百歳になろうとする司祭。彼が日曜日(ミサがある)の朝に倒れた時の文章…結局、すぐに立ち上がってミサの説教をするのだけれど。

「落葉」からも死についての引用を。

 結局、どこに目をやっても、暗闇のなかで空ろな目を開いて、蒼ざめた死に顔をさらしている男の人の姿が見えてくるのです。 
(p177)


うーん、これはこの短編集全体に言えそうな文だなあ。
(2015 02/17)

「落葉」始めました

今のところ、祖父、母、息子の三世代の視点からの、昔その家に住んでいた博士と呼ばれる医師の首吊り自殺の語り。現場に来た三人の視点が同じ事象(例えば汽車の汽笛が鳴る)について違った意識の流れの中で感じ取っていく。そういう構成。
この博士の死とそれから博士が昔町の人々の診察の依頼を何故か断り続けたという謎が、物語の中心軸。
(2015 02/18)

ウルフの影響?と「落葉」のズレ


「落葉」のイザベルが内の時間と外の時間といろいろ考えているところは、ヴァージニア・ウルフの影響が濃い部分かな、と読んでいて思った。
(2015 02/19)

「落葉」3つの視点が、いつの間にか子供の視点が抜けて2つになっている。イザベルの結婚式、博士と大佐(祖父)との対話、博士の死などいろいろな場面が視点の移動とズレを伴いながら進行していく。そんな構造…なので、ちょっと間が空くとかなり分かりにくくなる、一気に読むべき作品タイプなのかも。

で、そんなズレを縫うかのように特定のモノがキーワード的に埋められている。ジャスミンとか、靴を乾かしていた椅子とか、マルティンの背広とか。そういうモノについての人間の抱く感情というのは、思いの外強い。
(2015 02/25)

「落葉」の謎


というわけで「落葉」は、なぜ博士は町の人々や自分が妊娠させたメメまでも診察しないで閉じこもったのか、という謎から、なぜそれなのにこの祖父だけは助けたのか、という謎にスイッチして終わる。そして、謎は謎のまま…

結局、タイトルの「落葉」は何を小説の中で意味しているのか(バナナ景気で一時的に町に来てそして消え去ったいろいろな人や物に対しての言葉らしいが)、博士の筋とどう関わっているのかもよくわからなかったけど、落葉という言葉に関してこういう文章がある。

 しかし、ぐずぐずしているな、過去も未来も信じるな、と落葉は教えこまれていた。
(p287)


これと反対の立場が博士やこの家族のものだ、と考えれば謎を解く手掛かりにはなるかも。
最後はずっと閉ざされていた博士の部屋の扉が開け放れて、光が差し込む場面。また子供の視点が復活する。

 そして、光は騒然とした倒壊のなかに物体の影を引きずりこみながら、部屋のなかで仰むけに倒れるのです。
(p297)


子供にしては難しい比喩を使うなあ、とも思うが、これもそういう読者の表面的印象をつく意識の流れの効果。「倒れ」たのは光だけでなく、他のなにものかもその時共に倒れたのだろう。
そのなにものかが何かはまた謎…
(2015 02/26)

違う味わいの死及び読了報告


昨夜「落葉」本全体を読み終えた。
最後はマコンドの雨についてのイザベルの話「マコンドに降る雨を見たイサベルの独白」…イザベルというところでわかるように、元々は「落葉」の中に組み込まれていた話。それを友人の助言により切り離して別の短編にしたもの。

作品は5日間も雨が降り続くマコンドを見るイザベルの視点で。でも、ラストは雨が上がったのか死を迎えたのかなんだかよくわからない。仮に死を描いたものだとすると(ここでも汽笛が重要な役割を示す)、今までの死の描き方とは違う温かい或いは崇高な死の描き方。構成のきちっとしている「落葉」には少し合わなそうなので、友人の助言は適切だったかも。或いは、切り離してから付け加えた部分なのか。

解説から。マルケスの作品にはこの話もそうだけど、異常気象がなんか多い。これは外の環境が個人の内面を規定するというより、個人の内面がそういう異常気象的な外側を作り出している方向性が強い。という指摘。
(2015 02/27)

作者・著者ページ


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?