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「謎とき「人間喜劇」」 柏木隆雄

ちくま学芸文庫  筑摩書房

たぶん? 今はなき(入りづらい店でお馴染みだった)市ヶ谷の麗文堂で購入
(2009 04/26)

どうやら水声社「バルザック詳説ー人間喜劇解読のすすめ」(水声文庫)で復刊されている様子。
(2023 03/01)


序章

序章を読む(取り出してすぐのタイミングでも読んだと思うが)。出版から活字まで様々な事業を展開してことごとく失敗するバルザックだが、柏木氏曰く、リチャードソン始め印刷業界にまみれた後作家デビューする人は多いが、バルザックのように、一回作家デビューした後に印刷業界に行くのは珍しいそう。
(2024 01/29)

第1部第1章「黄金の夢の彼方に」…「ファチーノ・カーネ」


この作品は読んだことあり。「グランド・ブルテーシュ奇譚」光文社古典新訳文庫の中の一編。冒頭のバルザックらしい(現に若い頃、バルザックはここに住んで「文学修行」していたらしい)語り手の青年、その回想。今は盲目の老音楽師であるファチーノ・カーネのヴェネツィアの回想。両者とも当時二十歳だったということでお互い参照先になっているのでは、とのこと。ヴェネツィアへはこの短編書いた翌年にバルザックは行っている。
(2014 01/30)

後半は、カーネが連呼?する黄金(フランス語でor)と、一方でカーネを取り囲む銀(cの系譜…カーネの名前、白髪、月など)の比較で、カーネ自身は、orのoのように円環を回ってヴェネツィアに戻る予定だったが、実際にはパリで止まるというc的な軌跡になった、と。しかし、カーネは最後パリで語り手という後継者を見つけたので、oは語り手(あるいはバルザック自身)で軌跡が完結できた、という(カーネ本人は納得していないにせよ)。

この本は、バルザック「人間喜劇」の入門?「謎とき…」といえば江川氏の「謎とき罪と罰」に始まる一連の連なりなのだけど、もともと柏木氏は別のタイトルで行こうとしていたのに、連載中のスタッフの間の通称が「謎ときバルザック」だったらしい。それをバルザックから人間喜劇にして出版。そのスタッフの通称はなんだか最初のファチーノ・カーネの章からきてないか。orとc、黄金と銀の関連はいかにも「謎とき」…
(2024 01/31)

第2章「白い肩の向こうをのぞけば」…「谷間の百合」


谷間の百合…ロワール渓谷の、(あまりそういうイメージは自分にはないが)荒れた景観の中の花。その眺めをフェリックスもモルソフ夫人(生と死の要素の複合した名前)も見ている。
視点人物フェリックスに対しての「三美神」(ルネサンスの構図の一つ)…モルソフ夫人の三態(貞節なブランシュ、愛欲のアンリエット、そしてそれらを相剋した遺書の夫人)、あるいは貞節のモルソフ夫人、愛欲のアラベル、そしてこの物語をフェリックス自身が書簡で告白している相手、ナタリーが美という構図にもなる。この遺書の夫人あるいはナタリーの位置は、ルネサンスの構図では後ろ向きに(絵画等を見る者と同じ向き)なっているのも興味深い。しかし、一番面白いのは、こうして折角?作った構図を、小説最後でナタリーの現実的視点、フェリックスからの求愛拒絶という形で精算してしまうところ。

第3章「パリの高みから何を見たか」-ラスティニャックとリュシアン


ラスティニャックは「ゴリオ爺さん」、リュシアンは「幻滅」
冒頭にヴィクトル・ユゴーの「ノートル・ダム・ド・パリ」(今岩波文庫で出ている。上下巻)と詩集「秋の木の葉」、ヴィニーという詩人の「パリ-登高-」という詩と、それから「ゴリオ爺さん」最終ページのペール・ラシューズの丘でゴリオを葬ってパリに啖呵を切る場面。垂直の眼差し。女性原理との戦い。それに対し、現実社会で勝利しつつあったブルジョアの為のメディアが描くパリや、「幻滅」のリュシアンが愛人コラリーを同じペール・ラシューズの丘の墓地に葬る場面。水平の眼差し、女性へ助けを求める。
という図式はちょっと作為的過ぎる気が、今はちょっとする。実際に「ゴリオ爺さん」や「幻滅」を読んでどうなるのか。

 パリが地獄と名づけられたのは、たんに諧謔からだけではない。そこではすべてが煙を立て、すべてが燃え、すべてが輝き、すべてが沸き立ち、すべてが炎を上げ、湯気をたて、消えては、また火がつき、爆ぜ、火花を散らして、消えて行く。
(p105-106 「金色の眼の娘」から)


これは前者の視点から。やがて垂直と水平の視線を融合した「小説家の視線」を自ら作っていく。
ただ、最終的にバルザックが辿り着くのは、やはりペール・ラシューズ墓地に葬られる「いとこポンス」(柏木氏の表記による)。下界を見下ろすことも、水平に眺めることもせず、じっと墓地の死者の声に耳を傾ける。
(2024 02/02)

第4章「街角の視線「鞠打つ猫の店」の構図」


この話は実は「人間喜劇」目録の順番で言うと最初の完成された話になる(未完成なものが目録にはこの前に3作品ある)。画家であり貴族である青年と、旧商家の老主人は、前章で見たように垂直と水平の視線。そこに商家の娘が窓から現れる。

 小説冒頭から巧妙にしかけられてきた青春と老年、貴族とブルジョワ、芸術家と商人の対立する二項の描写は、少女が登場してその存在が不安定に揺れるところから物語ははじまるのである。
(p149)


しかしいざ結婚してみるとお互いにすれ違い、少女は夫が通っている夫人のところへ行き、そこで男女の駆け引きが、自分が捨ててきた商売の駆け引きとほとんど同じであることを知る。そこに足がついていないのは彼女だけ。
(確か岩波文庫にこの作品を標題にしたのがあったはず)
(2024 02/05)

第5章「絵の具の堆積の下に「知られざる傑作」の変貌」


岩波文庫で持って、読んではいるはず。
この短編は6つの版があるという。それだけバルザックが書き直したということ。大まかに言うと、二部構成の前半、青年画家プッサン(現実のニコラ・プッサンが直接のモデル)と恋人ジレットと、後半、老画家フレノフェールと「隠された傑作」カトリーヌ・レスコーが二つ折りの構図になっていた。そこでのテーマは悲恋だったものが、途中でバルザックが芸術論をフレノフェールに長く語らせるようになって、構図的バランスは崩れてゆき、テーマも芸術論哲学論へと傾いていく。

初版は1831年の雑誌「アルティスト」に掲載。この3か月前にホフマンの「ヴァイオリンの授業」という短編が掲載されており、若い芸術家が老芸術家に会いに行くなど、もろもろの共通点がある。バルザックはこのホフマンの短編を十分知った上で自分の作品を書いている。あとは、若い芸術家と老芸術家の間にバルザック作品ではポルビュス(この人も実在の画家)という人物がいて、両方を繋げる役割をしている。ポルビュスは「エジプトのマリア」を題材にした絵を描き途中で、その内容は娼婦マリアは渡し船の代金と自身の身体を交換しようとする。そして最後にフレノフェールがどうなったか確認しに来るのもポルビュス。「美しい諍い女」という娼婦の属性が付いたのも、それから最後にフレノフェールが「傑作」カトリーヌ・レスコーもろとも火を放って自殺するのも最後の方のヴァージョンで付け加わったもの。
(2024 02/06)

第6章「独り者のコレクション-「いとこポンス」の面白さ」


(ちなみに、「従兄ポンス」は読んだことあり(あまり覚えていない2000年代前半なはず)、その版が同じ柏木隆雄訳、藤原書店で、この第6章の文章は実はその解説が初出…それはいいのだけれど、見ればわかる通り、藤原書店では「従兄」、このちくま学芸文庫では「いとこ」…
まあ、いいけど…)

 彼女は金持ち(と信じている)いとこ一家のそうした恩恵を受けながら、なおその屈辱に耐えられず、一家を破滅にまでとことん追い込んだ。その逆に一人の老人が親戚のすべてから締め出しをくらい、そのため惨めに死んでいく物語が『いとこベット』に平行して書かれている。『いとこポンス』、作者四十八歳の作品で、『いとこベット』とあわせて『貧しき縁者たち』二部作とされた。バルザックの「白鳥の歌」である。
(p200)

 こうした根源の卑小と結果の重大という極端なまでの「落差」の中に、『いとこポンス』のダイナミズムの秘密が隠されている。美麗きわまりないポンスのコレクションをめぐって物語に登場する人物のほとんどが、善人悪人を問わずいずれもみにくい相貌であることもその落差の一つである。
(p216-217)


結局ポンスも相棒になったシュミュッケも寂しく亡くなっていくのだけれど、ここまでに至る「みにくい相貌」の人々の行動連鎖は、一つ一つが小さく些細なことだが、しかしそのどれかが外れても連鎖は完成しない。結局、人は、他人の不幸が好きなのね。
(2024 02/08)

第7章「虹の中の幸福-「トゥールの司祭」とは誰か?」


元々は「独身者たち」というタイトルが付けられていた本作だが、後に「ラ・ラブィユーズ」と「ピエレット」とこの作品で「独身者たち」三部作となり、「トゥールの司祭」と名付けが変わる。
この作品には3人の司祭が出てくる。物語開始時には既に亡くなっているシャプルゥ神父、ビロトー神父、そしてトゥルベール神父。ビロトー神父を形容する言葉は、「善良な」か「哀れな」のどちらかで変化しない、という。
(ビロトー神父って何か聞き覚えあるな、と思ったら、「セザール・ビロトー」読んでいた…親戚の設定かしらん)

 そこで次のように考えることも可能だろう。つまりビロトーの存在は、小説の展開とともにその性格、人柄を巧妙、かつ急激に変化させていく人物の中にあって、変化しないという点で逆にきわめて強い印象を与える人物として設定されているのではあるまいか。
(p242)


シャプルゥ神父、トゥルベール神父、そしてもう一人の主要人物、シャプルゥ神父やビロトー神父の部屋の貸主ガマール老嬢が、物語の進展とともに形容する言葉が変わっていくのに対し、ビロトー神父は変わらず。例えば「いいなづけ」のアッポンディオ神父もその類型だと思うけれど。あちらがアッポンディオ神父を測鉛として、主人公始め周囲の移り変わりを知ることができるという構造になっているのに対し、ビロトー神父の場合は止まっている彼の方が描かれる対象となっている。どちらが地か図か、の違い。

 ところがビロトーは終始そうした力学の埒外にある。彼が「この物語の主要人物」と小説冒頭からはっきりと記されるゆえんは、まさに『人間喜劇』を通じて特徴的な、さもしい欲望が渦を巻く地方社会では生き残ることのできない、「愚直」の殉教者である点にある。
(p243)


その描かれ方は、ビロトー神父を象徴する火、明るく太った印象に、水の要素がじわじわと浸透していくイメージによって。それは冒頭の雨の場面から、トゥール郊外のサン・サンフォリアンの僧院で「青白く、痩せこけた」姿に成り果てるまで続く。火と水のイメージ置換は「ウジェニー・グランデ」のヒロインにも通じているという…わけで、次の章は「ウジェニー・グランデ」。次から、女性版の第二部に入る。
(2024 02/10)

第2部第1章「黄金の火に灼かれて-「ウジェニー・グランデ」における」


バルザックが意外にも(なのか)作品を版を重ねる度に改訂していったという事実から。この作品の場合、イメージ強化に火と黄金が使われていて、節約家グランデ氏の家にやってきたいとこシャルルとともに火のイメージが、それと対をなす黄金(金貨)のイメージと現れ、途中でヒロインのウジェニーがシャルルに金貨を渡す場面で交代していく構造になっているというのが謎ときポイント。バルザックの改訂はそのイメージ強化を付与していく方向に進む。同じ夜、父親グランデ氏は大量の金貨を売り捌き、投機に成功し金の相場を下げる。下がったのは市場の相場だけでなく、作品中の金貨の「価値」も実は下がっている。

 「いや、金はあそこでは十三フラン五十サンティームもしていますよ」
 「していた、と言ったほうがいいな」
(p278)


翌朝、金を売ることを勧める銀行家のグラサンに対し、グランデ氏はこう答える。この瞬間にウジェニーの運命もまた下がっていく。これ以降火のイメージは一切消えるという。
物語はシャルルが植民地へ向かい、ウジェニーは裁判長クリュショに愛のない(白の結婚)結婚をする。やがてクリュショも亡くなり、気づけばウジェニー自身が父親のように金の亡者になっていた…
という話らしいのだが…
こうやってまとめているうち、この話、書き換えたい欲求が異様に出てきた。バルザックの構想はそれはそれとして、ウジェニーの現実の生き方として、イメージの対比でまとめられるほど「受け身」な生き方だったのかな。あるいは金の亡者で何が悪い…とか。自分には無理なので、アトウッドみたいな作家か生きのいい批評家か…頼むよ(ひょっとしてあるかも)。
(2024 02/18)

第2章「美少女フロールの見たもの-「ラ・ラヴィユーズ」欲望の構図」


藤原書店版が出た時には、そこまでの邦訳はなかったらしい。今は、藤原書店版の他に光文社古典新訳文庫版もあったりと、バルザックの中では評価が上がって来ている作品のようだ。
「独身者たち」三部作というのがあって、「ピエレット」、「トゥールの司祭」、そしてこの「ラ・ラヴィユーズ」で構成される。「トゥールの司祭」は前見た第1部の第7章の作品。「トゥールの司祭」のトゥルベールと「ラ・ラヴィユーズ」のフィリップ・ブリドーが同じ「怪物」の系譜だとしたら、「ピエレット」のヒロイン、「トゥールの司祭」のビロトー神父の系譜に連なるのが、「ラ・ラヴィユーズ」のフロール・ブラジエ。この中では一番したたかに立ち回るが、結局フィリップにいいようにされてしまう。一方、この作品には絵画・芸術のテーマもあってそれを代表するのがフィリップの弟ジョゼフ。彼には、同じように母親にあまり理解されなかったバルザックの個人的思いも投影されているらしい。

 フロールの名はまた、古代ローマの美しい娼婦フローラにも通じるのである。このような「女神」と「娼婦」を兼ねそなえたフローラのルネサンス的イメージを体現したものの一つが、ティツィアーノの『フローラ』であるとすれば、ルーベンスを模写して友人の画家を欺く腕をもつ技能卓抜な画家ジョゼフ・ブリドーに、「ティツィアーノ風の美女」と感嘆させる「ラヴィユーズ」の名前に、「フロール」が与えられた意味は明らかだろう。
(p323-324)


というように、柏木氏の謎ときはフロール・ブラジエがこの物語の中心にいるという説なのだが(「ラヴィユーズ」というのは、彼女のあだ名であるザリガニ取りのために木の枝で水面を叩く人という意味)、作品自体を読んでなくて言うのもなんだが、ちょっと弱い気も。何せフロールは作品後半しか出てこない。誰かを中心にしたというより、群像劇と言った方がいいような…
(2024 02/20)

第3章「性を見つめる-「いとこベット」の深淵」


「いとこポンス」と並び「貧しき縁者たち」を構成する晩年の作品。ユロ男爵の妻アドリーヌのいとこベット(エリザベスの別称らしいがフランス語では「けもの」とか「馬鹿」という語と同音になり、更にいつも黒ずくめの「黒いベット」はフランス語では「やっかい者」「嫌な奴」という俗語になるらしい)と、彼女と同じアパートに住む人妻ヴァレリィ・マルネフの二人が、ユロ男爵家に復讐するという話。ヴァレリィとベットは女性同性愛の含みがあるともいう。「いとこポンス」とはイメージ異なる気もするが、発端の心情はどちらも些細なことであるというところは似てるか。
細かいことは置いて、ここでは二人の最後の場面。まずヴァレリィから。

 今となっては神様に気に入られることしかない。神様と仲直りするように努めるわ。これが私の最後の色じかけ。そうだわ、神様をたらしこんでやらなくちゃ…
(p358)


男性原理の極限である神に啖呵を切っている爽快な言葉だが、もう一度立ち戻ってみると、そう思うのはバルザックも自分も男性だからかもしれない。死ぬ直前苦しみながら、掴まる最後の性がやはり男にたらしこむことしかないのか、という。
一方、ユロ男爵家等の男性側には取り持ち婆的存在、女性側にはその男の情報を教えてやる、という立場で両方に重宝されていたベットの最後は…

 あれほども多くの勝利をものにした長い戦いのはてに、ベットは病の恐ろしい苦悶のさなか、自分の憎しみを隠しとおした。彼女がとりわけ無上の満足に思ったのは、みんな涙にかきくれ、彼女を一家の守護天使のように惜しんで嘆いてくれたからだ。
(p361)


あと、ヴァレリィの家から追い出されるように出てきた老年のユロ男爵と豪商クルヴェルの二人が、クルヴェルがヴァレリィのために用意したマンションの一室で語り合う…最初はヴァレリィの不貞を罵るが、だんだんヴァレリィのよさを語り始める…というのは喜劇であるしなんか落語的で楽しい。

第4章「ハートのクィーンの失敗-「ソーの舞踏会」の男と女」


こちらは第1部で出てきた「鞠打つ猫の店」との並列。ちなみに次章の「二人の若妻の手記」にもつながる。テーマというか構成も「鞠打つ猫の店」と似ていて、あちらが庶民と芸術家の階層、こちらが貴族とブルジョワの階層。
まず、かなり気になるのがソーの舞踏会というそれ自体。元々貴族の豪荘な邸宅だったところを、革命後に市長デグランジュが市民が自由に散策できる場所として解放。そこで行われる舞踏会が、階級に全く関わりなく参加できる催し者だった。当時はまだまだ階級社会、そこにこの舞踏会の意味が重なる。

 踊りに来た人間が貴族であるかブルジョワか、はっきりわからぬところがもともとソーの舞踏会の特色であり、「妙味」なのだ。ブルジョワが貴族も顔負けの優美な姿で踊り、農家の娘が礼儀正しくふるまうのを見て、はじめて出かけたエミリーも驚いてしまう。「ソーの舞踏会」という「妙味のある混交」の場は、こうして小説の前半に強調された貴族至上の世界を、軽やかな舞踏の輪の中に崩していく。
(p372)


ここに出てきたエミリーがこの小説のヒロインで、結婚相手は貴族に限ると思い込んでいた、でも「鞠打つ猫の店」のヒロインとは異なり、自身でいろいろ知ろうとしている。ソーの舞踏会で会ったマクシミリアンという男に恋し、その為、彼が果たして貴族かどうかを遠回しにずっと探っていくが、はぐらかされていき…結局、店で働いていたマクシミリアンを見つけて、エミリーは仕方なく叔父のケルガルエ伯爵と結婚する。最後は、マクシミリアンが貴族院議員として認められたことを知る。その時彼女はトランプをしていたが、動揺して切り札のハートのキングを切ってしまった。ハートのキングは「心の王」…
今まで読んできた中で、この作品も実際に読みたくなった作品の一つ。半分以上はソーの舞踏会自体への興味…
(2024 02/23)

第5章「寄宿舎の窓から-「二人の若妻の手記」、女の変貌」


この作品は珍しく?書簡体小説。リチャードソンの作品で流行したのだが、バルザックの頃には下火になりかかっていた。若書きの時代にはバルザックも書簡体小説書いているのだが、盛期になって意欲的に取り組む書簡体小説…
また王政復古時に始まり、ルイ・フィリップの七月王政のブルジョワの覇権の次代へ。下にあるこの小説本の解説にも「七月王政がテーマになっているけれど、それはそのこと自体を全く書かないことで成り立っている」と書かれている。

 ここまでのルイーズとルネの往復書簡の転換は、いわば分別と情念の対照的な生き方を図式的に示すもののように思われた。しかし、それなら文字どおりジェイン・オースティンの「分別と多感」のテーマを伝統的に追う作品群の一つにすぎない「二人の若妻の手記」はそこからさらに母性(多産)と不毛というもっと生々しい生の相をあらわに示していくのである。
(p420)


ルイーズとルネの往復書簡。二人は修道院生活を終わってそれぞれの道を行くところ。ルイーズは社交に果敢に出かけ、ルネは結婚して南仏に農園を持ち子供にも恵まれる。先の七月王政の処世術を体現しているかのようなルネに対し、ルイーズはそれから外れるものに惹かれていく。しかしルイーズは遂に子供に恵まれなかった。次はそんなルイーズの書簡から。

 私には何かわけの分からないもの、というか、禁じられたものについ惹かれてしまうところがあるの。私の中で世間の掟と自然の掟の間で戦わせようとするものがあるの。私には社会よりも自然の方がもっと強く働くのかどうかわからないけれど、その二つの力の綱引きの決着をつけてしまおうって、ふと思ってしまうのよ。
(p424)


この章読んでから、ジュンク堂へ行ったら水声社のシリーズ中にこの作品で出ているのを見かけた。

第6章「声とまなざし-「アルベール・サヴァリュス」のヒロイン」


この小説の特色(結構いろいろバルザックも技法変えているのか)は小説内小説。アルベールが書く小説内小説は実は彼が密かに思いを馳せる人妻に対して書いているものでもあるらしい。そしてそれはバルザック自身が、愛人であるハンスカ夫人に読んでもらう為に書いている。ただ、アルベールの人妻への手紙はアルベールを慕う隣人の娘ロザリーによって書き換えられていた…

 小説の世界を現実化して、ひたすら自分の空想のままにそれをふくらませて、あたかも実在の世界のように考える一般的読者こそがロザリーであり、自分の書く作品と現実との狭間で、小説を書くことによって一つの理想を実現し、読んでくれる特定の人にメッセージを送ろうとすることで、かえって作者が見ることのできない大衆としての読者ロザリーに欺かれることになるアルベールは、作家バルザック自身の苦い自画像にほかなるまい。
(p452)


関係ないけど、巻末のバルザック年表をつらつる見ると、結構ハンスカ夫人と連れ立っていろいろな場所を訪れ、パリにも来ている。

第7章「誘惑のディスクール-「地方におけるパリジアン」から「ボヴァリー夫人」へ」


「地方におけるパリジアン」は「名うてのゴディサール」と「県のミューズ」の二部作をまとめた総称。制作年代も長さ的にも違うこの二作品はなぜまとめられたか?あまり有効な答えがない中、意外にもビュトールの「レペルトワール」が論じている。パリのジャーナリズムが地方へと移っていくことの隠喩だという。ロブ=グリエもそうらしいが、ヌーヴォロマンの作家はバルザックをかなり意識している。
続いて「モノグラフィー」(フイジオロジーとかコード(法典)ものとかとも呼ばれる)の話題。第一部第3章でも挙げられていた都市やフランスについての冊子に、職業や人間タイプの類型化されたスケッチが書かれた。これにバルザックは多く投稿しているが、その中の「地方の女性」という記事は「県のミューズ」に後で切り貼りされたものだという。この小説全体がこうした切り貼りでできたプリコラージュ小説?

ディナーとエンマ、マルガリティスとシャルル…ここから、柏木氏の筆は、バルザックを越えてフロベールとの比較になる。柏木氏が主に取り上げているのが、「県のミューズ」のディナーと「ボヴァリー夫人」のエンマ。先に挙げたジャーナリズムの受容者としての対象でもある。自分的には男性側、シャルル・ボヴァリーと「名うてのゴディサール」マルガリティス、「県のミューズ」ラ・ボードレーとの比較が興味ある。どちらもパリジアン達との意思の疎通が取れず見下されている感があるが、果たして…

 バルザックが「女性をよく研究していた」というフロベールの言葉は、彼自身がバルザックをよく研究していたことを示すだろう。
(p485)


この「女性をよく研究していた」というフロベールの言葉は、バルザックが亡くなった時に書いた手紙から。フロベールの母から、彼の作品とバルザックの作品に似ている場面がよくある、とも言われたらしい。が、バルザックの小説の枠組をフロベールは、そのまま精緻に矮小化して示している、と柏木氏は述べる。一例は、「県のミューズ」のディナーがパリへ、パリジアンのルストーとともに出かけ、ルストーが困った時にはディナー自身が書いたこともあるというのに対し、エンマは単にジャーナリズムの受容者に過ぎずそれによって身を滅ぼす、という比較。

 そしてバルザックの世界を超えようとする野心的な小説家は、彼らが才能があればあるだけ、いっそうバルザックを意識し、バルザック的手法をひそかに学びながら、バルザック的世界を葬り去るか、あるいはその上に乗って、さらに自分の小説世界の充実を誇示することになる。
(p491)


バルザック自身もまた、過去の作品や手法をこのように乗り越えていった作家であることは言うまでもない。書簡体小説やホフマンの幻想小説などを題材に。

ということでなんとか読み終えた。このままバルザック読んでみたい気もするが、いっとき開けたい気もする。おまけだが、年譜見てたら、バルザックの父の弟のルイ・バルッサ(元々はバルッサという姓だったのを、バルザックの父が変えた)という人物、バルザック二十歳の時に、少女暴行殺人罪で死刑になっているらしい。これ、結構気になる…
(2024 02/24)

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