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親の死を受容する能力

2013年2月、ある夜の9時過ぎ。

心電図モニターが、止まるー…
伯父と祖母が「逝くな」と叫んでいるそばで、
わたしはこんなことを考えていた。


死亡確認のお医者さん、遅いな。

医師は患者の側で待ち、
すぐに死亡確認をするものだと思っていたけれど、
病院は忙しく、ジッと待っている時間なんかないか。

あぁ、わたしは今日から、
高校生にして父を亡くした、かわいそうな女の子。


自分でも恐ろしいほど、冷静だった。


父について

うちはいわゆる転勤族。
広島、関東、関西を転々とした。

末っ子のわたしも小学生になり、
両親が広島に家を建てたあとは、
父だけが単身赴任をするようになった。

大阪赴任していた頃の父は、
週末になると、広島まで車を走らせ帰ってきた。

生まれた時から、
「フミだけはかわいい」と、
姉・兄に比べひときわ父に甘やかされていたわたし。

週末の間は、出かける父について行きたくて、
ちょっとした買い物でも、助手席に乗り込む。
でも、何を話していいか分からないから、
「お父さんは、メロンとスイカどっちが好き?」
なんていう、どうでもいい質問ばかりしていた。

家族で唯一のキレイ好きで、
文句を言いつつ一人で家を掃除する姿が不憫だった。
手伝うと嬉しそうに、
「こういうのは毎日少しずつするんだ、
 一気にキレイにするもんじゃない。」
と教えられたりした。

植物や鳥、昆虫が好きだった。
急に車を停めて、植物を見に飛び出してしまったり、
ポケットから大量のどんぐりが出てきたり、
大人なのに鳥の図鑑を買い揃えたりする、
子どものようなところがあった。

庭には枇杷、ユスラウメ、グミ、ブルーベリーなど、
きのみを食べられる木をあちこちに植えていた。

夏になると、豪華な花火を大量に買ってきて、
家族の花火大会を開くのも、父の楽しみだった。
大人気なく、
「この線香花火なんか、一本三百円なんだぞ!」
なんて言ったりしていた。

成績や進路に口出しされたことは一度もなく、
中学高校も大学も、好きなところに行かせてくれた。


こう書くと、父は素敵な人に思われるかもしれない。
でも、実際には、欠点も多い人間だった。

気が短くて、恐ろしい顔も持っていた。
大嫌いな納豆の香りが微かにでも残されていたら、
「俺に飯を食うなってことか」
と食事を放棄し、部屋に閉じこもってしまう。

子どもに、手もあげる。
典型的な亭主関白で、家事は一切しない。
母以外の好きな人も、度々いたのではないかと思う。
そして、誰よりもメンタルが弱かった。
だから、酒やタバコが辞められなかった。


でも、どんなに弱いところがあっても、
わたしにとっての唯一の父に変わりない。
やっぱり、父のことは好きだった。

日曜日の夜に、大阪に帰ってしまうのが切なかった。
白いステップワゴンが、
家の前の通りの端で一時停止をするときの
赤いテールランプを今でも覚えている。


そんな父とも、
思春期はそれほど会話をしなくなっていた。

わたしが美大受験のために画塾に通いたい、
と言い出したのをきっかけに、母と大喧嘩になった。
その際、わたしの口の利き方に腹を立てた父に
顔を叩かれてからは、いっそう会話が減っていた。


父が倒れた日

センター試験を終え、
私大受験を目前に控えた高校3年生の1月下旬。
当時、目黒で単身赴任をしていた父が
救急車で運ばれたと聞いた。

朝、玄関先で倒れているところを
大家さんが見つけてくれたらしい。

インフルエンザだと言う。
一時は集中治療室に入っていたので、
心配はしたが、それほど深刻に捉えていなかった。


入院中の父の、身の回りの世話をしに、
母が広島から上京することになったので、
少し早めのバレンタインチョコレートを託した。

市内の地下街にある、おしゃれな食品店で購入した。
父の大好物のイチジクが、
チョコレートでコーティングされたものだった。

その年、バレンタインを迎えることはなかった父に、
早めに贈り物をしておいたのは、
今でも良かったと思える。


父が死んだ日

そして、母と入れ違いで、
わたしは私立の美大受験のために上京した。

美大受験は、学科試験と長時間の実技試験がある。
さらに複数の学科を受けるので、
1週間ほどの滞在を予定していた。


多摩美術大学の学科試験の日。
校舎を出たところで、画塾の友だちに声を掛けられ、
帰りに何か食べて帰ろうとしていた。

同時に、電源を切っていた携帯電話を思い出す。
開くと、母からメールが届いている。

「試験が終わったら、N病院まで来てください。」

とてもシンプルなメールだった。
でも。いや、『だから』分かってしまった。
父は死ぬんだ。

「ごめん、ご飯、行けなさそう。」
と断ってから病院までは、あまり記憶がない。


病院へは、広島から移動している家族たちよりも
早く到着した。

家族が揃ったところで、
医師から父の状態について説明される。

インフルエンザをきっかけに、
急性肝不全や急性腎不全を引き起こし、
血小板が減少した状態で、視床出血がある。
血小板が少なく、自力で出血を止められないが、
手術に耐えられる体の状態でもなかった。

父がストレスから逃避するための酒をやめられず、
まだ五十歳になったばかりだったが、
既に体がボロボロなことは、家族は知っていた。

脳のCTを見た途端、医学生だった兄は泣き始めた。
死ぬと確定してはいない、という説明内容だったが、
「その望み」が限りなくゼロに近いことを、
家族は悟らざるを得なかった。


それからどのくらいの時間を経て看取ったのか、
さっぱり思い出せない。
黄疸が出ている父は
もう生きているようには見えなくて、
ただひたすら死人を見つめている感覚だった。

なぜか、自分の父が死ぬ、ということ以上に、
歳の離れた末っ子だった父に先立たれる、
伯父や祖母への同情があった。

どこか、遠くから自分を見ているような感覚。
現実がよく飲み込めていなかったのかもしれない。


父の死後

武蔵野美術大学の1学科の受験を残した状態で、
わたしは広島に引き上げなければならなかった。

国分寺にあるビジネスホテルのフロントで、
数泊のキャンセルを伝える必要があった。

ホテルの部屋を出る前に、心の準備をした。
わたしが欠席している試験会場が頭に浮かんだ。
よし、冷静に伝えられそうだ。

しかし、いざフロントに着いた途端、
声を発するより先に涙が止まらなくなって、
ただひたすら泣いて、ホテルのスタッフを困らせた。


棺には手紙を入れようと思ったけど、
何を書いても不足な気がしたので、
父が1番好きな「ルコウソウ」の花の絵を描いた。
ルコウソウの花は赤い星の形で、夏に咲く。
冬だったので、実物を入れてあげることはできない。


葬式には、たくさんの同級生が来てくれていた。
こんな受験シーズンに、ありがたかった。
そして、全員の目がわたしを憐んでいると思うと、
どんな顔をしていいのかわからなかった。

「どんなふうにみんなに告げられたんだろう。
 フミさんのお父さんが亡くなったので、
 お葬式に行きたい人は行きましょう、とか…?」
そんなことをぐるぐる考えて、恥ずかしくなった。


わたしもわたしで、受験が終わってはいなかった。
私大の合格発表はまだだったし、
公立の出願もしていたから。

親が急に死んだのに、
変わらない様子で毎日予備校に通う高校生は、
あとから聞けば、健気で、少し奇妙だったようだ。

でも、当時のわたしからしてみれば、
することがないと常に泣いてしまいそうで、
今までのルーティンを心の拠り所にしていた。

ふとしたことがきっかけで涙が出てくるので、
1ヶ月ほどはウォークマンも封印していた。
一緒に車で聞いていた曲や、
優しいメロディー、愛の言葉が刺さって、
バスの中で声を上げて泣いてしまいそうだったから。


当時の予備校の先生と、先日その話になった。
生徒のわたしは全く感じ取っていなかったが、
先生は当時、仕事に大きな悩みがあった。

わたしの健気な姿に背中を押されたし、
難しいとされていた学科に合格できたことで、
指導を肯定してもらえた気がした、と言ってくれた。

わたしには、人を気にかける余裕はなかったけど、
そんなふうに捉えてくれるのは、嬉しかった。


遺族となって

家族が1人減ったあと、
想像以上に、受け入れるのは早かった。

悲しくはあったけど、
死の瞬間から、冷めた自分も常にいた。

これからは家族4人なんだ、と分かっていた。
長男である兄が、より頼もしくなった気がするし、
どうしたって、わたしたちで生きていくしかない。

2ヶ月後にはさっぱりとした顔と気持ちで、
大学生活と一人暮らしを始めた。

そして、そんな自分を薄情だとは思わなかった。


生き物としての能力か

こんなことを考えていた。
親に先立たれる、それは遅かれ早かれ来るもの。
だから、生き物には親が死んでも立ち直れるような、
そんな本能が、組み込まれているのかもしれない。

親が死んだ後に、深い悲しみの末、
後を追ってしまうなんて言うことがあれば、
遺伝子のキャリアとして問題がある。


そう思わないと、
深い悲しみと同居する、冷静な自分の説明が、
どうしてもつけられなかった。


親の死は、間違いなく耐え難いほど寂しいけれど、
人間にはそれを乗り越える能力がある。
悲しみだけを理由に落ちていってしまうことはない。
身をもって知る、18歳の冬の話。


あとがき

この話を書こうと思ったのには、
いくつかの理由があります。

まずは、10年経っても薄れない、
強烈な高校3年生の冬の記憶を、
どこかで一度、文章にしてみたいと思っていました。


そして、オーストラリアに来てから、
家族について質問されることがとても多く、
父が亡くなっていると答えることも多くなりました。

さらには、「どうして」亡くなったのかまで
尋ねてくれる人もいます。

日本では、デリケートな問題に踏み込まない、
という風潮があり、あまり理由まで聞かれません。
それも、素敵な文化だと思っています。

ただ、10年も前の話だから、
わたしにとっては話すことに抵抗はなく、
むしろ話してみると、
バックグラウンドを早くから共有できることは、
悪いことではないと感じました。

そんな気持ちもあって、
あえて発信してみようかと思い立ったのです。


久しぶりに父の話を何度かするうちに、
色んなことを、また思い出してきました。

それを、せっかくなのでここに公表しました。
読んでくださった方、ありがとうございます。

もうわたしにとって、傷つく話題ではありません。
共感などもしあれば、ご遠慮なさらずに、
ぜひコメントをお待ちしています😊✨

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