私が私であることを許された高1の夏【夏休み】

書くンジャーズ日曜日担当のふむふむです。

今週のテーマは【夏休み】

私の人生を変えたと言っても過言ではない夏休みがあった。それは高校1年の夏、学校が主催する海外研修旅行に参加したあの夏休みだ。

正直高校に入学する時、私は全く乗り気ではなかった。親に決められた高校のみを受験することになってしまったからだ。家から近く、具合が悪くなってもすぐに帰ってこられるようにという、結局は私に起因するものだったが、何となくみんなが行く公立に行くものだと思っていた私にとって、親の一存で決められてしまったことに納得がいかず、入学前の学校説明会でも恐らく仏頂面を決め込んでいた。

ただ、その中に一筋の光を見つけた。付属高校合同の希望者による海外研修旅行の文字を。

「アメリカ・カナダ、中国、ヨーロッパ」

なんだ、この豪華さは。しかも夏休み33日間ってほぼ夏休みまるまる海外で過ごせるの?

とかく外国に憧れを持っていた私は、親の心配も顧みず帰ってからこんなことを言った。

「行きたくない高校に行くんだから、海外研修旅行に行かせてほしい」

なんとまあ、ワガママなことを言ったんだろう。自分が親になってみて身勝手さがよく分かる。

ただ、この研修旅行が結果的に私の見聞を広げ、そして同じ世代であっても全く知らない人の中で交流し、マイナス思考の私を前向きに変えてくれたのだった。

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たどっていけばみんな誰かの知り合いという関係性の田舎町に住んでおり、何をするにも「〇〇さんちのお嬢さん」「〇〇さんの妹」といった自分を表す肩書がついてきた。

どんなに努力しようと、どんなに意見を言おうと、結局、私自身を見てもらうことはできない。親も兄弟も、学校の先生のほとんどがそれを当然と思っていた。私だけは何を頑張ったところで〇〇家の末っ子なのだ。認められることもなく、頑張りも全て搾取される。

そんながんじがらめの中で暮らしていた私が、日本全国にある同じ付属高校の希望者とアメリカ・カナダで1か月の共同生活を送ることになった。

引率も他の学校の先生だから、私のことを知っている人はいない。体調不安はあったが、薬をたくさん持ち、他の不安を払拭できるようにお守り代わりに日本食のレトルトや梅干しも荷物に入れた。

知らない土地で知らない人と過ごすというのに、ほぼ期待しかなかった。

そんな私と裏腹に、家族は空港まで見送りに行くと、わざわざ車で出発時刻に合わせてやってきた。その様子を見ると、さすがにわがままを言って送り出してもらった私も涙が出てきた。とはいえ、他の保護者はほとんどいなかったのだから、わが家はやっぱり過保護だったのかもしれない。

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総勢60名ほどの参加者で自己紹介を行い、学年と名前、顔が一致するかなと思っていると、A,Bグループに分かれ、私はAグループに。

カナディアンロッキーの自然の中でのキャンプ生活。食事の支度やテント張りなど、今までやったことないような人たちが皆で力を合わせて作り上げる。

アメリカでのキャンプはバンガローで現地の小中高校生と入り混じって生活した。

約30人に分かれたグループはいつも団体行動をとるが、やはり仲良しグループはできてくる。

自然の中でテレビも他の娯楽もない中、それぞれが自分のことを語り始め、中にはカップルも生まれ始める。

私も、その内の一人になった。

〇〇さんちのお嬢さんではなく、私は〇〇ちゃんと名前だけで呼ばれ、私のバックボーンを知る人はいない。私の言葉は誰かの代わりでもなく、私だけの想いを運ぶものになった。

気を遣う人もいなければ、陰口を言う人もいない。いつも一緒にいるみんなはもうすっかり仲間だった。

狭い世界に閉じ込められていると思っていた私が、一気にドアを広げた時だった。同い年でも随分と大人びた子がいたように、私の世界も自分で広げていいんだと思うことができた。

今まで正しいと思っていた世界が、実は本当に小さなもので、憧れていたものが色あせて見えるほど、都会に住む同年代の友人はもっと先のことをたくさん考えていて、私の悩みなんてほんのちっぽけなものでしかないと思わされた。

北海道から九州まで、この旅行が終わればバラバラになってしまう。だからこそ、一緒にいられる間に皆多くのことを語り合った。考え方、趣味、学校での思い、家族の話・・・

言葉は知らなかったが、私はあの時に多様性というものを意識し始めたのではないか。

こんな考え方もある、こんな生き方もある、こんな暮らしがしたい、夢を語り合い、将来を見つめたあの日があったからこそ、後ろばかり振り返るのではなく、前を向こう、自分で切り開く努力をしようと思えた。

あの時の恋は甘酸っぱい思い出に変わるが、素直に心の内を話せる仲間が全国にできたことは私にとって心の支えになった。

あの夏が、私が私でいることを許してくれた。そして誰もが人の目を気にすることなく、自分らしく生きていいんだと確信したのだった。



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