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新茶の季節が思い出させてくれた半径5mの広い世界

夏も近づく八十八夜

今年はどうやら5月1日だったみたい。緊急事態宣言よりもかなり前から人の心のざらつきと焦り、変化に適応できない不安に包まれ、涙まみれの時間がただ過ぎていく。気づいた時にはとうにゴールデンウイークも終わっていた。黄金週間という感覚がスッポリと抜けてしまった今年、まだ新茶を手に入れていない。

新茶、買いに行こう

やりたいことが浮かんだ。

私が今したいこと、自分の心の真ん中を見る。些細なことでも自分で意思決定する習慣をつける。

新茶が飲みたい。

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ゴールデンウイークが新茶の季節だというのは、かなり幼い頃に原体験として記憶に刻まれたらしい。自営業で忙しくしていた我が家は、遠出や旅行をすることもなく、毎年隣県の静岡へのドライブと決まっていた。ドライブインには茶娘の格好をした少しお年を召したお嬢様方が茣蓙の上にできた新緑の山を前に、手際よく湯呑に注いでは声を掛け通りかかる人にふるまっていく。もれなく私にも声がかかる。

お嬢ちゃん、熱いから気を付けてね

昔ながらの模様が入った湯飲みには鮮やかで、ほんの少しだけ濁りのある黄緑色が波打っている。鼻を突き抜けるような青々とした香り、いつも飲んでいるお茶よりもずっとずっと生きている感じがした。

口にしたら甘く広がる味、思わず「おいしい」と声を上げた。

その声にお嬢様方は反応し、「気に入ったみたいじゃん、子どもでも味が分かるだねー」と笑みを浮かべる。そこらに売っているおもちゃには目もくれず、お茶の山の香りを嗅ぎ、お茶を飲んでしあわせな顔をし、回し注ぎの淹れ方を観察する子どもの姿にご満悦な様子だった。

販売していたのも、お茶の生産者か、それに近い関係の人だったのかもしれない。だからこそ、子どもの私が何の忖度もなく、おべっかでもなく、口にして発した言葉が本物であったから喜んでもらえたのだと、今となっては感じることができる。

もちろん、この時に美味しいお茶を詰め込んだ1キロほどの袋はしっかりと胸に抱えて帰り、その日からお茶を淹れるのは私の仕事になった。

小さな頃からお腹が弱く、ジュースやアイスクリームを口にすることが許されなかったから、私が飲めるものは温かいお茶と決まっていた。他の選択肢がないというだけで、子ども時代の楽しみは制限される。そんな時に出会った香り豊かな甘みのあるお茶は、私にとって世の中で一番好きなものになった。今でも好きな食べ物はと聞かれたにもかかわらず、「お茶」と答えてしまうのはこんな歴史がある。


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大好きなお茶を買いに行くのは階下にある大家さんのお店。住んでいる場所でいつでもお茶を選ぶことができる、こんな偶然ってあるんだろうか。お茶屋さんの楽しみは、その時おすすめの種類のお茶でもてなしてもらえること。今日は新茶を買うと決めていたため、普段より少し多めに予算を取る。九州のお茶処は八女や知覧、星野村もいい。本当は静岡の小笠あたりが好みだけれど、今住んでいるのは福岡だから、取り扱いは九州のお茶がメイン。野性味あふれる強めの味を好む私は、今回も迷わず知覧の新茶を選ぶ。新茶の時期は今だけだから、他にも味わってみたい。店内をあれこれ眺めている間に、今日は冷茶を準備してくれた。悩みに悩んで、予算の都合上、やわらかく穏やかな味の八女の新茶をチョイス。星野村は次回に延期。

隣県への移動も規制され、環境や働き方が激変しても、農作物は日々成長を続ける。例年と変わらず私たちの手元に届けてくださった生産者の皆さんに心から感謝します。

テーブルに置かれたガラス茶器から鮮やかな緑の水色(すいしょく)が透けて見える。小さくシンプルな器が色を際立たせ、心を躍らせる。水出しの冷茶は甘味が一段と引き立ち、もうすぐやってくる夏を感じた。

大好きなお茶をいただきながら、一杯を飲み終えるまで束の間の会話を楽しんで。

家からたった数mの場所で、遠い産地や過去の記憶にまで想いを馳せる。

ほんの10分ほどの買い物。家族以外の人との会話。家に戻る時に顔を見て話しかけてくれた隣のお店のスタッフ。

たった半径5mの範囲は顔なじみの人であふれている。

久しぶりの外出、ひとりで過ごすことと孤立とは違う。何も寂しくはなかった。

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家に戻り、お湯を沸かし新茶を淹れる。茶葉を茶筒に移し替えるだけで、かぐわしい香りに笑顔が生まれる。爽やかなみどりの香り。

普段から使っている急須で、特別なことは何もしない。

普段通りお湯を冷まし、急須に茶葉を入れお湯を注ぐ。茶葉がしっかり回転するように急須の蓋の穴は注ぎ口に向けて。

1分半ほど蒸らしたら、私とムスメの分を注いでいく。


口元に近づけると、青々とした野性味あふれる香りが鼻を駆け巡る。大きく吸い込み、味わう前にお茶の生きる強さを感じた。幼い頃感じたあの喜びが蘇ってきた。美味しいと声を上げると、ムスメも「香りがいつもと違うし甘い」と興奮した声で話す。

生活に失われた色や香りがこの一瞬にすべて凝縮され、戻ってきた。


大丈夫、きっとやり直せる。願望が確信に変わった。

私の心の真ん中が見えた。


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私の住む福岡は緊急事態宣言が一足早く解除され、ニュースでは誰に気兼ねをすることなく自由の身となった親子が、雨の中、動物園を訪れる様子が映し出されていた。

足早に目的の場所へ向かう人の動き、表情、誰もが口にしなくても必要以上に開放感が伝わってくる。

もう心が焦ることはない。

私は一人でもStayHomeを続ける。

ひとよりも少し環境に慣れるのに手間がかかる。ひとよりも少し敏感に受け止めてしまう。

そんな自分を受け入れ、ゆるす。納得して遠い世界に出られる日を自分の意思で決める。

それまでは半径5mの世界で生きていく。


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