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思想の輪郭を形づくり、言葉をブランディングする。

22歳になりました。
一発目に何しようかと思いましたが、お風呂に入って、普段やらない頭の中の整理&発信をしようかと思い、noteを書いております。

— 本noteの趣旨
私が大学を休学しながら行なっていることについてです。普段深く話す機会がない人や、何でこれやってるの?って思ってる人も少なくないんじゃないかなと思っています。
少しでも僕が見ている世界線を共有したいなと思い、noteを書くことにしました。

お急ぎの方は、「思想の輪郭を形づくる」をさらっと見て「言葉をブランディングする」をみるのがおすすめです。

1. そもそも今何をやっているのか

平たくいうと企業やアーティスト、時には政治家のドキュメンタリー映像を作っています。


よく勘違いされてしまうのですが、一口に「ドキュメンタリー」といってもNHKで流れるドキュメンタリーや、映画祭などに出てくる「ドキュメンタリー映画」を作っているわけではないです。

個人的Netflix/アマプラでオススメのドキュメンタリー映画
・常田大希 混沌東京 -TOKYO CHAOTIC-(Netflix)
・サンダーランドこそ我が人生(Netflix)
・RIDE ON TIME シーズン1 エピソード13-15_ NEWS(両方)
・いつのまにか、ここにいる Documentary of 乃木坂46(両方)
・憧れを超えた侍たち 世界一への記録(アマプラ)

余談も挟みましたが、僕が作っているドキュメンタリー映像は、対象となる企業やアーティストから制作費(お金)を頂き、映像を制作しています。要は映像制作会社と同じ形態で事業を展開しています。

正直1年半前の自分はまさかカメラを回す人になるなんて全く想像もしていませんでしたが、僕の中ではコロナにより想像と違いすぎた大学前半期にがむしゃらに打ち続けてきた点の先に姿を現した野望でした。

僕の中では、やっと自分の心の中の欲求に出会えた。裸になった。

そんな思いで、映像とは全く別の世界線で生きていた自分が、ドキュメンタリー制作事業に踏み切りました。

とは言っても全く知識も経験もなかった私は、まずはカメラについてYouTubeで勉強するところから始めました。それが2022年の10月頃だったでしょうか。

では舵を切るその背景で何を考え、どんな思想に忠誠を誓ったのか。
そんなことを書いていくのが、今回の主題です。


なんとなくこのパートだけ常体(だ・である調)で書きます。なんとなく。

2. 思想の輪郭を形づくる

一般社団法人Otonoha 世田谷子どもミュージカルのドキュメンタリー撮影より
photo by Emi Okubo


さて今回の主題になって来るのだが、私はドキュメンタリーを通して、「ある思想」を推し進めていきたいのだ。逆に言うと、ある思想を推し進める手段として、「ドキュメンタリー」を採用したと言っても良い。

ではそれは何か。「ドキュメンタリー」を僕なりの解釈で要素分解することで、その輪郭を理解してもらえると思うので、1つ1つ書いてみることにする。

❶ドキュメンタリーとは「魅せずに魅せること」である

最近よく思う。クリエイティブとか魅せ方発達しすぎじゃね!?って。
ある角度から見たら喜ばしいことだが、もはや何が本当なのかわかんなくなることがある。

若者は特に目が肥えてしまった。
作り物への信憑性を疑い、清々する。

このコモディティ化した社会が次に向かわなければならないのは

「リアルかどうか」ということ。

コテコテのラッパーみたいな思想だが、私は結構大事な指標になってくるんじゃないかと本気で思ってる。

ドキュメンタリーとは、まさにリアルを追求した表現なのだ。
私たちドキュメンタリストは創作しないことに命をかける。

あらゆる切り取られ方をする現代社会での表現を差し置き、より長い文脈で、普段語られない裏側まで追求し、責任を持って表現する。

するとどうだ。それがたとえポジティブな表現でなくとも、等身大でありのままを曝け出すことで、より深い解像度で対象者を捉えられるのではないか。

これが「魅せずに魅せる」逆張りとしての魅せ方であると信じている。

いや信じるのではない。
そんな魅せ方で、等身大で生きる人、企業を発掘したいし、出会いたい。
そんな旅をしているのかもしれない。


❷ドキュメンタリーとは「心の琴線に触れる手段」である


作品が記憶に刻み込まれ、意識が変わる。一歩踏み出し、何らかの行動を起こすようになるかもしれない。共感が広がれば、いつかきっと、社会が少しは変わるかもしれない。

著書「テレビ・ドキュメンタリーの真髄 制作者16人の証言」より

これがまさに、僕がドキュメンタリーという手段の可能性を確信した最も大きな理由をわかりやすく表現してくれている。

私は「シャカイ」を変えることを割と大事にしてきたこれまでの人生で、そのシャカイが何かわからなくなった時期があった。
結局それは誰なんだ。どうなったらシャカイは変わるのか。そんなことを考えている中で、もっと個人の幸福を考え出したら、なんとなく自分が生きる使命がはっきりしてきた。

それが「納得感」というキーワード。

人はこれさえ大事にしてれば、たとえ損した人生であっても、笑って死ねるんじゃないか。これがこの「ドキュメンタリー」に辿り着いた一番原点の思想である。

そして自分の使命とは、

人が行うあらゆる「選択」に「納得感」を付与すること。

もう一度参照した言葉を載せる。

作品が記憶に刻み込まれ、意識が変わる。一歩踏み出し、何らかの行動を起こすようになるかもしれない。共感が広がれば、いつかきっと、社会が少しは変わるかもしれない。

著書「テレビ・ドキュメンタリーの真髄 制作者16人の証言」より

僕はこの「納得感」を、ドキュメンタリーという手段で付与し続けるのだ。

——— 人が行うあらゆる「選択」に「納得感」を付与する。


❸ドキュメンタリーとは「鏡」である

先ほど、ドキュメンタリーは、見る人の心を動かすと言ったが、ドキュメンタリーを撮る対象者の心すらも動かすと思っている。

考えてみて欲しい。

自分の私生活を密着するためにカメラを回されるとしよう。
すると自分が朝起きて寝るまでに何をするか、考えるでしょう。

それが1日ではなく何日も続けば、行動だけでなく、自分が生きている理由や何を大切にしているのか、どこへ向かっているのか、そんなことまで考えるようになるのではないか。

それがここでいう「鏡」なのだ。実際にドキュメンタリーを撮った人からも、「ステークホルダーのために撮ってもらった映像なのに、自分たちを見つめ直すきっかけになった」という声があったのだ。

これが、僕がドキュメンタリーを撮る意味のひとつだと思っている。

——— 襟を正し、再考させる。


それがドキュメンタリーだ。


❹ドキュメンタリーとは「哲学すること」である

ここまで読んでくださった人の中で、感の良いガキなら感じるかもしれないが、ただ対象者の後を追っかけるようにカメラを回し、インタビューを撮るだけでは、良いドキュメンタリーは到底生まれないのだ。

ドキュメンタリー映像を撮る私たちカメラマンは、対象者と真正面から「対峙」しなければならないのだ。

対象者と対峙し、よく観察し、哲学する。

そこにとことんこだわり抜くのがドキュメンタストとしての基盤であり、大切にしなければいけないことである。

それを私は「ドキュメンタルする」と言っているが、その心持ちで挑まなければ、対象者に簡単に飲み込まれてしまう。

対象者に飲み込まれたカメラマンが撮る映像は、チープで噛み応えのない肉のような映像しか撮れない。対象者が発する言葉にすら影響が出ると私は思っているし、実際自分が撮った映像を振り返っても飲み込まれた映像はわかってしまって悔しい。

ドキュメンタリーにおける「カメラ」というものは、あってないようなものだ。結局は「人と人」でしかない。


——— 深い関係を築き、本音を引き出す。


これこそがドキュメンタリストとしての至上命題、そして永遠のテーマなのである。


3. 言葉をブランディングする

さて、ここまで読んでくれた方。本当に感謝です。飲み行きましょう。🍻

上記で説明した「思想」なんとなくわかってもらえたでしょうか。最近言葉にすることが少ないので文章表現が鈍りすぎていますが伝わっていたら嬉しいなぁ…

ここまでは、ドキュメンタリーという手段を使って、どんな世界線を描いているのかを説明してきましたが、私はこれだけでなく「言葉をブランディング」していきたいのです。

要は、上で説明したようなことをひとつの言葉として定義し、提唱していくと言うことです。

その言葉こそが


——— 「ノンフィクションマーケティング」


ここまで読んでくださった中で感の良いガキ(また登場)は気付くかもですが、僕がやりたいことは「ノンフィクションマーケティング」という言葉に集約されます。

ノンフィクション(non-fiction)は、接頭辞 non- と fiction で構成される語であり、「フィクション-ではない」という意味である。フィクション(fiction)は「創造」「創作」「虚構」「作り話」という意味。空想の産物である架空の物語のことである。つまり、ノンフィクションは「虚構ではない」「作り話ではない」という言い方で「事実を扱っている」と表現した語である。

Weblio国語辞典

ノンフィクション(作り話ではないもの)でマーケティング(広める)する。


しかしこの一件わかりやすい言葉はネットで検索しても、ヒットしません。
と言うことは、この世に存在しない言葉ということ。

そう。僕は言葉を創り出し、その「言葉」そのものをブランディングさせていくことで、思想を広めていきたいのです。

はい。これがオチです。(オチましたか…?)

4. 今後の展望

大学の復学までもう半年切っているというなんとも嫌な時期ではありますが、事業としてドキュメンタリーを進めていくことは引き続き頑張ります。

11月からは、まだまだ数少ないポートフォリオを引っ提げて、本格的に営業をスタートさせ、会社としてやっていくための土台を作っていきます。

だがしかし、言葉をブランディングして、思想を広げていくためには、自分の事業の範疇で止まっていては意味がありません。施策というか?今後の進め方で目論見は色々あるので、随時進めていければなと思っております。

そして、大学院に進学して、学問としても解読していきたい気持ちもあるんですよ。大学院で学問としてこの事象について研究しながら可能性を探り、ビジネスとして社会実装していく二刀流で頑張るのが今のところ最適解なのかなと思います。良さそうな大学院あったら紹介してください(懇願)🙇‍♂️

そしてそして有識者の方々。僕が今やろうとしていることのように、言葉を作って、その認知が広まって一般化した。みたいな事例知ってたら連絡ください。泣いて喜びます。🙌

この考えに似たワードが既に提唱されてる!とかいう、とんでもない大どんでん返しがあったら、連絡ください。泣きます。😭


ということで22歳も頑張ります。

読んだ感想とか率直に送ってくださったら本当に嬉しいです。
引き続きよろしくお願いします。

2023.10.27 am5:20
林 楓馬


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