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へばりついた妖怪「デキナイ」|横尾芽惟|2022-23 essay 10

「ふくしデザインゼミ」は、福祉やデザインに興味のある学生たちが、実際の福祉法人を舞台に、分野や領域の垣根を越え、実践的に福祉を学ぶプログラムです。いまはまだ福祉の外側にいる学生たちが、福祉施設をめぐり、その担い手と対話を重ね、図鑑記事を執筆する。編集やデザインの考え方を活用しながら、より本質的なかたちに整えてゆく・・・。このエッセイは、そのプロセスを通して、試行錯誤を重ねた学生たちの思索の記録です。


できない、できない、できない

私は記事を書きあげることができなかった。デザインゼミで作成する図鑑の1ページ分の取材と記事を任されたのに。結局、書きあげることができなかった。

私は1年間の休学を挟み、もうすぐ卒業の限界大学生。1年間の休学期間は、私なりにもがいたし、「普通」の道を少し外れてるのだということを表したくて、いつも5年生だと自己紹介してしまう。
「5年制の大学?医学部とか?留年?」と、いつも相手を混乱させてしまう。4年生だとは、なんだか言えない。見栄っ張りなのだ。

落とすと卒業できない授業も、卒論も、最後の最後のこの時期まで抱えっぱなし。

できない。まじで、全然できない。

今日も今日とて、"PC"と"デキナイ"に向き合う(先日、卒業!)

1ページの記事を書き上げられなかったのは、ショックだった。結局学生編集部のメンバーに執筆を預けることになった。

どうしてみんな書けるんだろう。どうしてみんな、期日までに書いて出せるんだろう。すごいな。本当にすごい。申し訳ない。
世間では「当たり前にできるべき」期日を守ること。こんなこともできない私って一体何なんだろう。甘えすぎなのか。
べきが自分を苦しめる。べきに縛られる。大学の初めから苦しんでいた、べき思考。いつからか、「べき思考は無くすべき」と新たなべきに変わっている。

記事が書けなくて預けることになったとき、「自分への失望」をいつものごとく、いくつかの感情のなかから選び、拾いあげた。
しかし、拾ったその重くへばりつくようなものを見て、「はて?こんな感情を毎度自ら拾いに行くワタシって?」

キミ、もしや、わざとだね?わざとその感情を選んでるね?落ち込んでメンタル崩すことで、やらなくていいという、免罪符にしてるでしょ。

目的論的な発想をする意地悪な自分も、斜め上にいる。そして悪化するメンタル。

「自分への失望」以外にも、多様な感情がそこには生まれているはず。もっと軽くて抱き心地のよい感情だってそこには落ちているのに。選択可能なのに、わざわざネガティブなものを拾っている感がすごい。

「結局私はできないのだ」と証明してしまうのはとても怖いことだ。
それゆえ挑戦ができない。失敗ができない。

私は頑張ればできる、と思い続けたいのだ。弱さを認めるって簡単じゃない。

書けなかった理由は、言葉?

人のことを書けなかった私が、自分のエッセイは何とか書けるという事実にも、「私」がにじみ出ている気がする。
私が担当した取材対象は、いまをそのまま楽しむことのできる天真爛漫で屈託のないような18歳。なんだか満たされているように見える彼女を表す語彙が、私のなかには無かった。
私が使うことのできる言葉は、約23年の人生の経験や自分の感覚に紐付いた、イメージできる言葉である。また、私という人間を説明したり解釈するために探して収集してきたもの。私を表現するのに、適しているものばかり。
結構暗めで堅物たち(笑)

自分とは一見対照的な取材対象。自分の持つ語彙ではうまく表現することができなかったのだと思う。記事を書きながら、表現にネガティヴが滲み出る感じがしていた。

緊張をほぐそうとうなずきまくるが、
屈託ない高橋さんには心配不要だったみたい
一方の私は最後まで緊張していた

でも、果たしてそれは、私だけのことなのか?
他人が持つ言葉たちも、もしかしたら全部主観で、その人の経験に紐づいたものなのかもしれない。
それは、普通のことなのかもしれない。そして、この図鑑を執筆するときも、私のなかにある言葉を使い、私から見る取材対象を表現したら、それでよかったのだと思う。
とはいえ、それがわかっていても、たぶん書けないのが私だ。

こだわりが強い(驚くほど)

私は略したり、削ったりする作業が、得意ではないようだ。人の感情のほんの些細な動きが興味の対象であり、大切だと思っている。その部分を取材でまず聞き取れていなかったこと、そしてそれを表現できるだけの力がまだ私にないこと。

図鑑では、文字数やページ数に制限があるなかで、いかにその人らしさをにじみ出させるかがポイントだ。1ページ分の文章と写真とその構成で、細かな感情やその人の背景を想像させることができる文章が私にも書けたなら。それがはじめからできたなら。(極めて無謀だ)

「100%未満を許せない」「はじめから100%にできないなら0%で!」という認知の歪みがひどい。

最初から理虔さんのようなキャッチコピーや説明文を書こうとしてる自分がいた。頂点をドーンと目指してしまうあたり。

おいおーい。どんなこともさぁ、チャレンジして失敗してさ、そこから学んで、すこーしずつできるようになるもんじゃないのかー?と、斜め上から声がする。

考えても考えても暗くなるこのエッセイ。もはや面白い。(無理矢理)

なんでこの人こんなに暗いん(笑)

そういえば、少し前の卒論のプレゼンでも、
研究に性格がにじみ出ちゃってるよ、暗い(笑)と、教授に言われたんだった。

いやいや!
エッセイは明るくあるべき、結論があるべきって、やつにも縛られるのはやめよ。(開き直り)

「めいさんのそのままを、ぼろぼろ出してもらえたらよいのだと思います。」と、私のめんどくささにいつも付き合ってくれるメンバーに言われた。確かに。というか、もはやそれしか提出する道が、もう、ない。(絶望、、、、半分、希望半分)

弱くてめんどくさくて見栄っ張りな自分のまま、私は社会に突っ込んでいく。

私は、ドーナツ?

最近自分に言ってること。
「ドーナツはさ、穴を見るのもいいけど、小麦粉でできたおいしい部分がドーナツなんだと思うぜ?」

ドーナツはその穴を見るより、ドーナツそのものを見て、食べて美味しくなるほうが幸せだと思うから。(穴=欠けた部分、があることも確実にドーナツというものの構成要素だから見ても別によいけれど、)

最後はドーナツのドーナツ本体をおいしく食べたいな。

「もうある部分」を楽しんで、「おいしい」とか「嬉しい」とかの感情を拾いたいなぁ。

|このエッセイを書いたのは|

横尾 芽惟
(創価大学 経営学部4年)

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お知らせ ~ふくしデザインゼミ展を開催します!~

ふくしデザインゼミ展は、福祉と社会の関係をリデザインする実践的な社会教育プログラム「ふくしデザインゼミ」の成果を、さまざまな形で鑑賞・体験する企画展。ゼミ生が制作した『ふくしに関わる人図鑑』に関する展示を中心に、トーク、ツアー、さらには「仲間さがし」に至るまで。福祉を社会にひらく、さまざまな企画を予定しています。ぜひお越しください。

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