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歩くことの複雑さ『散歩哲学──よく歩き、よく考える』【読書記録】

『散歩哲学──よく歩き、よく考える』(島田雅彦 著、2024年、早川書房)

十条・池袋・高田馬場・阿佐ヶ谷・登戸・町田・新橋・神田・秋田ほかを歩きのめす!
人類史は歩行の歴史であり、カントや荷風ら古今東西の思想家・文学者も散歩を愛した。毎日が退屈なら、自由を謳歌したいなら、インスピレーションを得たいなら、ほっつき歩こう。新橋の角打ちから屋久島の超自然、ヴェネチアの魚市場まで歩き綴る徘徊エッセイ

知らない場所を歩くのが好きなので、最近は歩く時にはGPSログを取るようにしている。家の周りは歩き尽くしてしまい、複雑な網目状のログが完成してしまった。毎日のように散歩したところで、あらゆるまちのあらゆる道を歩けるわけではない。散歩には楽しもうと思えば、いくらでも楽しめてしまうポテンシャルが含まれている。

昔から思索家はよく歩く。哲学者然り、詩人然り、小説家然り、作曲家然り……よく歩く者はよく考える。よく考える者は自由だ。自由は知性の権利だ。

7頁

本書は作家として活動する著者が、自身の散歩録(純粋な散歩というよりは居酒屋放浪記の体をなしているのもそれはそれで面白い)を引きながら、二足歩行の成立によって人類は進化してきたという人類史や永井荷風の『濹東綺譚』然り、多くの文学者や作家が歩くことを題材にしてきた、という歴史を踏まえつつ「散歩」の重要性を語っていく。

散歩をすること、まちを巡ることには何かしらのインスピレーションを湧き起こす何かが込められているのだろう。
『複製技術時代の芸術』で知られる思想家のヴァルター・ベンヤミンは、都市に消費があふれていく時代のパリでの経験から、都市を徘徊すること「遊歩者(フラヌール)」について未完の著作『パサージュ論』で論じている。まちにさまざまなイメージがあふれたことによって、「まちを歩く経験」それ自体が一種の刺激的な体験となっていった。

特異な芸術運動として知られるシュルレアリスムも、パリを中心とした活動がなされていた。これはパリというまちでの経験が当時のシュルレアリストたちにさまざまなインスピレーションを与えたからであろう。

レベッカ・ソルニットの『ウォークス 歩くことの精神史』でも、そうした「歩くこと」は人類の精神に大きな影響が語られる。

アリストテレスは歩きながら哲学し、彼の弟子たちは逍遥学派と呼ばれた。 公民権運動、LGBTの人権運動の活動家たちは街頭を行進し、不正と抑圧を告発した。 彼岸への祈りを込めて、聖地を目指した歩みが、世界各地で連綿と続く巡礼となった。 歴史上の出来事に、科学や文学などの文化に、なによりもわたしたち自身の自己認識に、歩くことがどのように影を落しているのか、自在な語り口でソルニットは語る。人類学、宗教、哲学、文学、芸術、政治、社会、レジャー、エコロジー、フェミニズム、アメリカ、都市へ。歩くことがもたらしたものを語った歴史的傑作。 歩きながら『人間不平等起源論』を書いたルソー。 被害妄想になりながらも街歩きだけはやめないキェルケゴール。 病と闘う知人のためにミュンヘンからパリまで歩き通したヘルツォーク。 ロマン主義的な山歩きの始祖・ワーズワース。 釈放されるとその足でベリー摘みに向かったソロー。 インク瓶付きの杖を持っていたトマス・ホッブス。 ラッセルの部屋を動物園の虎のように歩くウィトゲンシュタイン。 刑務所のなかで空想の世界旅行をした建築家アルベルト・シュペーア。 ヒロインに決然とひとり歩きさせたジェーン・オースティン。 その小説同様に大都市ロンドン中を歩きまわったディケンズ。 故郷ベルリンを描きながらも筆はいつもパリへとさまようベンヤミン。 パリを歩くことをエロチックな体験とみなしたレチフ・ド・ラ・ブルトンヌ。 歩行を芸術にしたアーティスト、リチャード・ロング。 … 歩くことはいつだって決然とした勇気の表明であり、不安な心をなぐさめる癒しだった。

ところで、散歩には思索を深める効果もあるが、「まち自体を楽しむ」という側面もある。本書の後半では、池袋や新橋、登戸など具体的な地名を挙げながら、そこでの散歩が綴られるが、散歩について綴ろうとした時に、そこに何が見えるのか、どういう歴史があるのか……などまちの光景への認識をどんどん深めていくことになる。それが極まっていくと、路上観察学や考現学に繋がっていき、ある種の学問や表現にさえ繋がっていく。

『現代思想2019年7月号 特集=考現学とはなにか』におさめられた、漫画家panpanya氏の「架空の通学路」では、作者の出身地である川崎市での中学校の通学路について紹介される。そこでは、道中に見えるあらゆるものに触れられる。ある種の日本独特な風景である「柵」ですら、取り出してみるとバラエティにあふれていることに気づかされる。

モノへのまなざしが描き出す〈暮らし〉の思想
道行くひとの靴や軒先のランプ、ハリガミからカケ茶碗まで……さまざまな〈モノ〉へのまなざしを通じて私たちの日常生活のかたちを描き出す、考現学という営み。今和次郎にはじまり現在へといたる多様な実践の系譜から、その尽きせぬ深さとひろがりをさぐり、アクチュアルな思想としての可能性を浮き彫りにする。

この短い文章がさらに面白いのは、最後に、その描写は空想したものであることが明かされる点だ(タイトルにあるので、最初からとも言えるが)。

この文章は、通うことのなかった川崎市の中学校の通学路を記憶と空想に基づいて描写したものです。実際には中学校には足を運んだことはなく、未だに正確な場所さえ知らない。しかし繰り返し空想した故郷の記憶は時が経つほど観念的になりながらも鮮明になり、あのまま彼の地に暮らしていたら通うことになったであろう通学路を力技で思い描くことが可能なのだった。

81頁

最初にGPSログをつけて隙間を埋めるようにまちを歩いていると述べたが、まちを歩くことは道を一度踏破すれば終了……というわけではなく、何度も何度も楽しむことができる。panpanya氏が記述したように自分の頭の中に生成されたまちの記憶と再びそのまちを歩いた記憶に齟齬が生まれる時に「まちは常に変わり続けている」と気づかされるからだ。
まちは停止しているわけではなく、建物が建て替えられることもあるし、そこに生活する人がいる限り、当たり前のことだが、ちょっとしたものが増えていたり減っていたり、微細な風景もどんどん変わっていく。

と考えると、「散歩」という行為は空間的にも時間的にも多様な要素が込められている複雑な経験だと言える。そうしたまちでの体験をなにか、もう少し具体的に捉えてみたいと改めて感じた(次読む本への繋ぎ)。


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