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「君たちはどう生きるか」を観て…

この世界は、敵意と悪意に満ちている。
戦争で数百万人単位の殺し合いをし、それによって母は殺された。学校へ行けば、いきなり敵意と暴力だ。父は、金儲けと、周囲に財力と地位の力を誇示することしか頭にない。おまけに母が亡くなったと思ったら、いきなり母の妹ナツコさんと再婚するのだという。ナツコさんのお腹には、もう子供までいる…。母を踏みにじる行為だ。母があまりにもかわいそうだ。

ならばいっそ、僕はこんな世界とは決別してしまいたい。
大叔父が僕を誘う。「我を学ぶ者は死す…」かまうもんか。それもよかろう。

僕の心の奥からアオサギが顔を出して、僕自身の心の内奥を覗くことを促す。「待ってますぜ。あなた自身の心の奥で」
トリックスターであるアオサギに導かれるようにして、僕の心の奥への旅が始まる。

     ※

・そこには、死への志向が充満している。大叔父の心のように。内閉して、いつ崩壊するかわからない極めて不安定なバランスの基に。

・しかし、そこには同時に、生まれてゆくモノがある。(ここでは、ワラワラたち)ただ、その誕生には(生きるには)漁をして魚を殺し、それを食らう必要がある。生まれる・生きるには、キレイごとだけでは済まない。どこかで何かが犠牲になっている…という暗喩。

・ペリカンは言う
「我々は魚を食わなければならない。しかしこの海には魚が少ない。何度高く飛び立ってもこの島に着く。しかし、この島・この海には魚は少ない。」(だから、生まれるもの・生を食らわなければならない)
まるで「我々の国には資源がない。周囲の国々へ進出してそれを手に入れなければならない。我々が生き残るには、他国を占領して領土を拡大し資源を得なければならない。そのためには、軍事行動が必要だ。兵士たちの命と引き換えにそれらを奪わなければならばい…」と、言うように。(帝国主義国家の論理だ…。昭和初期の日本の帝国主義がコレだ)
しかし、その行為は、内外に(自国にも敵国にも。或いは自分自身も、他者も)、悪意・怨念・恨み・敵意を生む結果になる…のではないか?

・インコが道を阻む。インコ達は、イデオロギーや妙な主義主張に囚われている。それはドグマにまでなって、集団を狂気に導く。(ナチスか、共産主義国家か…という全体主義国家のような)それを振りかざして相手に対する敵意を増殖させ、相手を食らおうとする。でも、そのイデオロギーや主義主張は、何のためのもの?他者排斥、自分・自国中心主義、規格外の者は排除する…自分たちの存在を守るため?
自分の存在・存続のためには、敵が必要なの…?

・僕の心の内に潜む、様々な悪。
それらと邂逅しながら、消えたナツコさんを探して奥へ進む。
…でも、なぜ眞人は、ナツコさんを探すんだろう? 嫌いなはずなのに。いなくなれば良いと思っているのに? 大好きだった母に似ているから?本当は拒絶すべき人ではないと、わかっているから?
やっと産屋の奥にいるナツコさんにたどり着く。でも、ナツコさんは拒絶する「私の事なんか大っ嫌いで、いなくなればいいと思ってるくせに」
双方の拒絶どうしの紙吹雪。二人ともそれによって窒息しそうになる所を、母の化身であるヒミの愛の炎で助けられる。眞人にとっての母、ナツコにとっての姉。ヒミ(母)は、後妻となるナツコを許し、眞人の拒否を溶かす。愛の炎によって。
ヒミ(母)は、眞人とナツコの和解を手助けしてくれた。互いに受け入れあう事を寿いで。

     ※

現実界に還ると、ペリカンはただのペリカンであり、インコはただのインコでしかない。鳥たちもまた集団催眠状態だったのかもしれない。それぞれが個人に還れば、それぞれ、ただの鳥(人)である。かつ、心の中で鳥たちが邪悪に見えたのは、僕自身のの邪悪な思いを反映してそう思い込んでいただけかもしれない。
アオサギは当初、眞人の心の奥からチラチラと漏れ出す、邪悪で厄介なヤツであったが、眞人が自分自身で、自分の心の内奥を自己分析することができるようになれば、ただの愛嬌のあるアオサギでしかない。

     ※

宇宙から降ってきた石の上に建築を重ねて造った「塔」。
あれは外来思想とかイデオロギーを日本人が咀嚼しようとして、いつしかドグマとなって人を縛る…という暗喩だろう。
塔の建築で大勢の人が死んだ。(外来の思想・哲学・イデオロギーで、どれだけの人が道を誤ったり死んだりしたか…)大叔父も塔から出てこないままだ。
或いは、狭義には「塔」とは「党」のことかもしれない。共産党・社会党・国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス)・国家ファシスト党・大政翼賛会…
     ※  ※

周囲は、そして心の中は、なにも悪意と敵ばかりではない。味方も登場する。
気づかなかっただけで、実は密かに守ってくれている人がいた。ばあや達。古漬けのような愛情をもって。敵意のカケラも無く。「亡くなったお母さまにそっくりだ」と。

死んでしまった母も、胸の内では生きていて、僕を見守り、支え、助けてくれる。そういえばアオサギが言っていた。「あんたの母が、あんたが来るのを待っている。死んでなんかいませんぜ」と。

人知れず、誰かが、何かが自分を見守ってくれていた…!それに気づかなかっただけだ。
もうこの世にいない母も、胸の内では、(活き活きと、まるで理想の姿をとって)いつまでも寄り添っていてくれる。胸の内に眠る母が、守り神のようなパワーを秘めた少女に姿を変えた人物、ヒミ。(実は、大好きだった母の、眞人の心の中でのイメージだ。本当は、眞人にとって母は強大な力で自分を守ってくれる存在であると同時に、憧れの人でもある…それの具現化だろう)
そして、あの自分勝手で嫌な父でさえ、危険を顧みず、全てを投げうって僕を助けに来てくれたじゃあないか…!

この世はクソどうしようもないドブ川だ。殺し合いや憎みあい、悪意やバカバカしさに満ちている。
大叔父のように、それに絶望してしまいたい自分がいる。
この世は地獄そのものだ。でも、それだけじゃあない。誰かが見守ってくれている。好意を寄せてくれているのを見過ごしているだけじゃあないのか?
悪にばかり気をとられて、それに気づかずにいた…。

登場人物がみんな笑って大団円のハッピーエンド…とは違う。眞人は相変わらずムスッとしている。(この世は相変わらず殺し合いや悪やバカバカしさに満ち満ちている)ただ、ナツコの呼びかけに素直に返事をして応えて、この話は終わる。少なくとも双方の和解は本物だったのだろう。学校でも、多少の衝突はあるにせよ何となく無事にやっていることだろう。

     ※

「僕はどう生きるのか」
大叔父のように自分の世界に引きこもって、この世と決別するという道もある。
でも、他者や社会に充満すると見えた、嫌悪・憎悪・悪意・敵意…は、自分の心の中で自家中毒的に過剰に増幅されたもの、僕自身が膨らませたものではなかったか?
眞人は、現実界に生還する道を選ぶ。自らの内の様々な悪の存在を認め、それが他者を悪の幻想に染め上げる様相を知ったから。そして、自分と他者の悪同士の相互作用によって、悪の幻想を肥大化するのを知ったから。外界の悪に絶望して世界から逃避して自らにこもるか。自他の悪の存在を直視して、それでもそれを飲み込んで、現実界を生きるか。

他者も人である事にかわりはない。社会も、何も敵意だけで構築されているわけでもあるまい。
僕は、あえて、この世界に踏み出す。みようによっては地獄にほかならないこの世を生きる。なぜなら、
悪は僕自身の中にもある。僕も、この世の悪に加担する一人かもしれない(石で自分の頭を打ったように…)。でも、同時に僕は人知れず寄せられる好意の存在も有る事を知った。母のように、生死に関わらずいつまでも心の中で僕を支え守ってくれる存在を忘れかけていたが、窮地にあって、その存在の大きさに気づいた。

僕はあいかわらず少し不機嫌に生きてゆくかもしれない。でも、もう絶望はしない。他者を、社会を敵意をもってのみ相対することはしない。
僕は、この世を生きてゆく。知らぬ間に犯している悪もあるかもしれない。しかし、それと、せめてバランスをとるように、良きことをみつけ、それを行いながら。

それはもしかしたら、大叔父が僕に託そうとした「世界のバランスを保つ」ことなのかもしれない。

他者の存在を認めながら、このドブ川のような娑婆を渡って行くだろう。自分自身の内に潜む欺瞞や怯懦や自己愛や悪の存在を正面から認めて。そして、他者もまた自分と同じようにそれらの欠点を持ち、時にそれらに心を支配されて生きている事を認め、一定の理解と受容をして行くだろう。善意をベースとして。なぜなら、大叔父と約束したから。この世のバランスを維持してゆくのだ、と。
大叔父のそれは、もしかしたら自分個人の心の・自分だけの内奥の世界のバランスであったかもしれない。しかし、現実世界に戻る事を選択した眞人は、自分と、自分の周囲を取り巻く社会におけるバランスを維持するように務めるだろう。善意をベースとして。自身の内にある悪、他者も同様に持つ悪の存在を、正面から見据え、欺瞞や怯懦の正体を知ったから。そして、善意や密かな愛の存在を知ったから。

     ※ ※ ※

エンターテイメントは、ともすると安直に感情に訴える作りをして観客の注意を引こうとする。
本作は、そういった色気を(ほぼ)放棄している。
アニメ作品は、「一時の娯楽を与えるだけで何ももたらさない…」という議論がある。一面、そうだろう。
しかし、本作は、観客に媚びる事を(ほぼ)放棄し、わかりやすいストーリーや、観客の心を引き付ける単純な感情操作を(ほぼ)考慮していない。そのため、少しでも何かひっかかるモノを感じた観客は、本作が、自分の内のどこと共鳴するのか探らなければならない。
なぜなら、本作はストーリーを追うのではなく、自身の内奥への沈潜と、そこでの何事かとの邂逅…を促すような作りとなっているから、だ。

「アニメ作品は一時の娯楽を与えるだけで何ももたらさない…?」本作が一時の娯楽を観客に与えたかどうかは…わからない。でも、自らの心の内に沈潜してゆき、そこで自らを助け、見守る誰かと邂逅する契機をもたらした…という事はあるんじゃあないだろうか?

     ※

本作は、観客に媚びたエンターテイメントではない。
本作はわかりやすいストーリーを提示しない。そもそも「ストーリー」は、後追いの理由付けの物語でしかないのだから。現実の人生においても、あらかじめストーリーは存在しない。
本作は、混沌とした心の奥へ降りてゆくのだから、なおさら筋道だったストーリーなど存在のしようもない。ある意味「夢」のようなものだ。

(蛇足)
本作を、宮崎駿の体験や高畑・鈴木との関係などと紐づけて、作品の成り立ちを考察して楽しむ…という観方がある。それはそれで面白いんだけど、じゃあ、なんでそれらのエピソードを本作に組み入れたのか、本作の意図とか狙いとかとどういう関係があるのか…という視点が弱い。
今回は、あえてそういった紐づけ謎解き遊びはやめて、ストレートに自分の感想を書いた。

「君たちはどう生きるか」という問に対する、僕自身の回答でもある。


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