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敷かれたレールのうえで/安江沙碧梨①

自立した大人になってほしい――
子どもが大人になる過程で、よく聞く言葉です。
スポーツ選手も同じようなことを、学生時代にコーチから聞かされたかもしれません。
自立し、主体的に動ける選手にならないと、いい選手にはなれないぞ、と。
とはいえ、その自立が実に難しい。
大人になっても、その難しさを痛感する人は多いのではないしょうか。

富士通レッドウェーブのポイントガード、
安江沙碧梨選手(コートネーム:サオリ)もまた、
自立することに向き合っている選手のひとりです。

親に言われるがまま

姉の影響で興味を持ち始めたバスケットボール。
でも幼いころは本格的にやりたいと思ったことがなかったそうです。
平日の練習は夜遅いし、面倒くさそう。
だから、小学2年生で入団したミニバスケットボールは一度やめています。
5年生になって新たなチームで再開するときも、初日は体育館にあるピアノの下に隠れて、参加を拒んだほどです。
なかば強引に引きずり出され、「打ってごらん」と言われて打ったゴール下のシュート。
それを褒められて翻意しますが、やはりその後もどこか本心ではありません。
「父が指導者の経験をしていたこともあって、バスケットに熱心だったんです。言葉はよくないかもしれませんが、親の言われるがままにやっていたところがあったように思います」
ただ、才能の片鱗はあったのでしょう。
「ボールを持ったら攻めろ」
その言葉に従い、リバウンドを取って、自らボールプッシュ。そのままレイアップへ。
今の安江選手を彷彿とさせるアグレッシブさは、当時からあったようです。


中学は、全国的にも強豪校のひとつに挙げられていた愛知・津島市立藤浪中学校へ。
しかしこれも、どちらかといえば、お父さんに敷かれたレールでした。
小学生のとき、地元の鳥取県で全国のチームと交流する機会があり、ミニバスケットボール界では有名な愛知県のコーチと出会います。
出会うといっても、接点を持ったのは、もちろんお父さんです。
一度、練習に参加させてほしい。
愛知県まで出向いたときに居合わせたのが、当時、藤浪中学を率いていたコーチでした
そのコーチに安江選手はこう言われます。

「お、キミは目(の輝き)が違うな。いい選手になるぞ」
安江選手自身にその意識がないのですが、そのコーチは目の奥にある輝きを見逃さなかったのでしょう。
強豪中学に入れたいと考えていたお父さんにとっては、渡りに船です。
大人の話し合いで中学は藤浪中学校へ
そこから3年間、愛知県でのお父さんとの生活が始まります。

同級生に伊森可琳選手がいて、1つ上に山本麻衣選手(トヨタ自動車アンテロープス)がいます。
チームは安江選手が1年生のときに全国制覇。
しかし「1年生の頃の記憶はまったくないです」と、安江選手は振り返ります。
慣れない環境で、周囲に圧倒されているうちに起きた出来事だったのです。
それでも、その3年間があったからこそ、今の自分はあると言います。
「練習はとにかく基礎に次ぐ基礎の連続でした。ハンドリングはもちろん、体作りのための縄跳びもやっていました。そこで培った基礎がなければ、今の自分はいなかったのかなと思います」
それでもまだ安江選手の“スイッチ”は入りません。
頑張ってついていくだけの日々。
自信もありません。
ただ、がむしゃらに、頑張ってついていくことしかやっていなかったと、安江選手は認めます。

不本意な転校と全国制覇

高校はさらに苦労します。
結果を先に書けば、3年生のときのウインターカップでは優勝をしています。
そう書けば、下級生のときは苦労したけど、最上級生になって結実したのだろう。
そう思われるかもしれません。
間違いではないのですが、詳細は少し違います。

実は安江選手は、3年生になるまで、大阪の高校に通っていました。
中学のコーチが「師匠」と慕う同校のコーチに
「3年間、私の下でみっちりバスケットのことを叩きこむぞ。だからウチに来なさい」
と意気込まれて、その波に飲まれて、大阪に出ていたのです。
実際、最初の2年間でしっかりと鍛えられ、安江選手自身も頑張っていました。
しかし2年生の終わりごろ、バスケット部とはまったく異なるところで問題が起こり、学校を転校せざるを得なくなったのです。


転校先は岐阜女子高校。
高校バスケット界では強豪校のひとつです。
とはいえ、大阪で頑張るつもりでいた安江選手にとっては、不本意な転校です。
しかも岐阜女子は、高校の進路を決める際にも声を掛けてくださった高校のひとつ。
知り合いがいたこともあって、どこか気まずく、メンタル的に苦しかったと認めます。
「私のなかでは、ただ入るだけで十分という転校だったんです。私のバスケット人生も高校で終わりだなと思っていたくらいですから。でも岐阜女子のみんなが真剣に全国優勝を目指している姿に圧倒されて、私も頑張らなきゃと思い始めました。そこから、みんなに追いつくために頑張り始めたとき、大阪で2年間鍛えられた経験や知識が生きてきて、ちょっと通用したことで自信になっていったんです」
少しずつ変わっていく安江選手ですが、まだ自立のためのスイッチがONになるには至りません。
全国制覇をしながら、本当の自分を見出せないまま、卒業します。

大きな転機となった大学進学

大学は、父の思いを受けて体育教師になることと、自らのわずかな希望であった関東の大学でプレーしてみたいという思いが重なって、日本体育大学に進学します。
転機は2年生のときのリーグ戦。
その少し前まで新型コロナウィルスの世界的な蔓延で、試合はおろか、練習も、授業さえもない時期が続いていました。
鳥取の実家に戻っていた安江選手は、お父さんと一緒にNBAの動画を見ながら、ドリブルハンドリングに毎日取り組んでいたと言います。
慣れない土地での生活が長く続き、どこかで心が疲弊していたのでしょう。
心の疲弊は、身体にも影響していくものです。
久しぶりに実家で過ごすゆっくりとした時間と、新たな取り組みがマッチし、安江選手のコンディションもよくなっていきました。
新型コロナが一定の落ち着きを見せ始め、大学に戻った安江選手は、これまでとは異なる感覚を得ます。
「コロナ明けのリーグ戦で、パッと開花する感覚というか、やれるという感覚を得たんです」


学生時代を振り返ったとき、安江選手はどこかで父親に敷かれたレールに乗っていたと認めます。
お父さんが嫌いなわけではありません。
むしろ、大学生になっても、練習に付き添ってくれるお父さんは、かけがえのない存在です。
「ただ大学に入るまでは自分の意志ではなく、お父さんの思いに乗っかっていたように思います。大学の寮に入って、別々に暮らすようになって、自分の気持ちではなく親の気持ちで生きてきたなと気づきました。それはよくないと思ったから、そこからは頑張って、自分の意志で動くようになっていきましたね」

すぐに自立ができるわけではありません。

その後も少し遠回りしながら、安江選手は少しずつレッドウェーブへの扉に近づいていきます。