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思考の癖 #2「自分は女性に好かれない」

世の中に、自分を好きになってくれる女性はいないのではないか、と考えてしまう。


今までの24年間、確かに女性と接する機会はいくらかあった。そして、必ずしも嫌われたり、良くない関係になったりするわけでもなかった。

しかしそんな中で、自分は、女性から異性として見られたり、恋愛の対象として見られたことがなかった。
告白されたことがないのはもちろん、食事に誘われたことすら一度もない。

女性からはおそらく、
「嫌いではないが、付き合うとか、そういう対象ではない」
「嫌いではないが、生理的に受け付けない」
と感じられてきたのであろう。

よく、女性と話していると「変わっている」や「変人だね」と言われることが多かった。
その場では、「え、そうかなww?」などど笑いながらごまかしていたが、心の中では「あ、まただ。また目の前の女性に変な人、気持ち悪い人だと思われてしまった」とショックを受けていた。

こんな経験をするうちに、
「自分という人間は、女性から好かれることは一生ないのではないだろか」
といった信念が芽生えてきた。

「なぜ、自分は女性から好かれないのだろうか」

これは、自分が高校・(特に)大学生になってからの最大の悩みの一つだと思う。


ここで、前回の「思考の癖#1」でもあったように、ある反論を自分にぶつけてみたい。それは、

「今まで出会った女性には好かれなかったかもしれないが、それで『自分は未来永劫、全世界の女性誰からも好かれることはない』と結論付けるのはおかしい。もしかしたら、これから先は自分を好きになっていくれる人が現れるかもしれないではないか」

という反論である。

そして、この反論に対しても「思考の癖#1」同様、
「この意見は正しい。まったくもってその通りだ」と答えたい(このような当たり前の反論を許してしまう程のねじ曲がった信念が、思考の癖の”癖”たる所以である)。

そうなのだ。世の中にはいろんな人がいる。
仮に、世界のどこかに女性の誰からも好かれない男がいるとして、自分がその一人になる確率など、常識的に考えて極めて低い、いやあり得ないといってよいかもしれない

「自分を好きになってくれる女性が一人もいない」と強引に結論付けることへの根拠がない以上は、「これからは自分を好きになってくれる女性が現れるかもしれない」と結論付けることの方が自然である。


それなのに、やはり自分は「女性から好かれないのではないか」と考えてしまう。
女性と接すれば、また異性として見られず、変な人、気持ち悪い人と見られるといった経験をしてしまうのではないかと思ってしまう。

頭の中では
「そんなことはない」
とわかっているのに。



さて今回は
「頭の中では、私はいつか自分を好きになってくれる女性と出会えるはずだと思っておきながら、それが実現しないのではないかとも考えてしまう」

という思考の癖で、これは初め「幸せ恐怖症」のことなのかなと考えていたが、それはどうやら違うらしい。

「幸せ恐怖症」とは、自分が幸せになりそうな状況に置かれたり、幸せになりそうだという期待を抱いたときに、それを敢えて回避したがるという心理的傾向である。

ここで、もう一度今回の思考の癖を表現し直すと、
「自分は幸せに対しての恐怖心はなく、むしろ幸せを積極的に望んでいる。それなのに今までの経験から、(本当はそんなことないのに)幸せになりそうな状況に置かれることや、幸せになりそうだと期待できる機会すら、起こらないのではないかと考えてしまう」
となるのだが、これは以下の点で幸せ恐怖症とは異なる

幸せ恐怖症の人たちは、まず幸せの予兆が訪れる。だからこそ、その際に実現しそうな幸せに恐怖を抱くのである。
例えば、
 好きな女性に食事に誘われた。その後の関係も良好で、このままいけば付き合えるのではないかと思ったが、好きな女性と付き合えるというのは幸せであるから、それを回避しようと、その女性と距離を置いてしまった。
といった振る舞いである。

(↑幸せ恐怖症は恋愛以外の要素も多数含んでいると思われるが、ここでは今回の思考の癖と比較するために、恋愛における幸せ恐怖症に限定している)

しかし自分の場合は、そもそも幸せの予兆がない。だから、頭の中では、そんなことはないとわかっていても、「自分を好きになってくれる女性はこれからも現れない」と感じてしまうのだ。

「幸せは本来望まれるべきものだとわかっていても、幸せになりそうになると、なぜかそれを避けたがる」という幸せ恐怖症と、

「幸せを渇望し、確率からいって本来なれるはずだとわかっていても、なぜか自分に限って幸せは訪れないのではないかと感じてしまう」という今回の思考の癖は

やはり異なるようである。


以上の違いを踏まえて、自分は、幸せ恐怖症の人を羨ましく思う

もちろん、幸せ恐怖症の人も彼らなりに相当ツライ思いをしいるのだと思うし、他人の悩みを簡単に自分の尺度で評価するのは愚かなことなのだが、それでも、自分には彼らが羨ましく思う。

なぜなら、彼らは幸せの予兆は少なくとも感じ取っているからである。

私は、そもそも、その予兆といったものを感じとったことがない

好きな女性と付き合えることが幸せだとするのなら、幸せ恐怖症の人たちは、幸せまであと一歩手前まで来ているのである。あとはその幸せの予兆を受け止め、モノにするだけなのだから(当然、それができないから彼らはつらい思いをしているのだが)。

これと比較すると、「そもそも女性に好かれたことがない」という経験からくる「自分は女性に好かれない」という思考の癖を持っている私は、幸せ恐怖症の人よりも、何歩も後ろを歩いているように感じるのである。

たとえるなら、目の前にあるボールが幸せでだとして、幸せ恐怖症の人のひとと自分はこんな位置の違いがあるのだろう。

幸せ恐怖症-自分の対比


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