国立西洋美術館の企画展「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?」について
つい最近、上野の国立西洋美術館へ行き、企画展「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?」を見てきました。
国立西洋美術館としては、開館以来、初の現代美術展となります。
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これまで国立西洋美術館は20世紀前半までの西洋の美術品を扱ってきたそうで、
それは、開館当初、先人たちが、これからのアーティストへ刺激を与えるため、「ヨーロッパの油絵の本物を集めて」、「日本に送って見せてやろう」、という想いを持っていたから。
しかし、時がたち、国立西洋美術館は「過去のアーティスト」を所蔵するばかりではなく、この美術館を見て育った「未来のアーティスト」の作品を所蔵する日も来るはずで、開館以来65年経過した今が、そろそろ、そういう時期かもしれません。
でも、「未来のアーティスト」って本当に育っているのでしょうか。美術館という過去の作品が埋葬される墓所みたいなこの場所へ、将来のために、所蔵しておきたいというか、眠らせておきたいというか、それにふさわしいアーティストや作品は存在しているのでしょうか。そのあたりを今一度検証してみようという企画です。
だから、タイトルが「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?」という「現代美術」の企画展です。
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1章から7章まで、20人と1グループの現代美術作品が展示され、ときには、現代美術作品に紛れ込むように、また、あるときには、現代美術作品と対比するように、国立西洋美術館所蔵の、よく知られた作品が展示されています。
その「新、旧、新、旧・・・」の展示が面白かったので、いくつか紹介します。
1章 ここはいかなる記憶の地場となってきたか?
中林忠良氏
歴史的な血脈とあらゆるものを侵食する時間のはざまで
(中林氏の略歴と展示作品はこちら)
中林氏の作品は「すべて腐らないものはない」という思想のもとに作られた腐食銅版画です。
そして、中林氏の恩師の恩師があこがれた版画家がルドンといい、ルドンの恩師がロドルフ・ブレダン(1822-1885)という版画家で、これはブレダンの「わが夢」という作品です。
中林氏の作品は突如生まれたわけではなく、こういった「恩師の恩師のあこがれの、そのまた恩師」あたりから「歴史的な血脈」で受け継がれた長い過程を経た末にあるわけですね。
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松浦寿夫氏
記憶の重圧に対して絵画を編成すること
(松浦氏の略歴と展示作品はこちら)
松浦氏の創作のテーゼは「描くことと記憶の関係」です。
松浦氏は「セザンヌ展」を観て絵画を描きはじめ、「モーリス・ドニ展」で絵画の方向が定まったそうです。こちらはモーリス・ドニ(1870-1943) の「池のある屋敷」という作品、アンリ・マティスの特徴が強い色彩の対立、とするならば、ドニは弱い色彩の対立で画面が構成されています。
描くことは「記憶」という重圧に、逆らうこと、脱してゆくこと。
2章 日本に「西洋美術館」があることをどう考えるのか?
小沢剛氏
「西洋美術館」のなかで西洋中心主義をゆさぶること
(小沢氏の略歴と展示作品はこちら)
小沢氏の「帰ってきたペインターF」という作品群がウェブ上に公開されていたのでリンクします。画家にとっての「脱・西洋」、「脱・植民地」という難題に「もし、こうだったなら」という発想でストーリーが展開されます。
ストーリーは、「ペインターFがパリへ行き、戦争がはじまり、祖国に戻り、アジアへ派遣され、戦争の記録画を描き、終戦となり、居場所を求めて(パリではなく)バリへ行き(笑)・・・その後、どうなることやら・・・」
ここに展示されていた「西洋画」は、藤田嗣治(1886-1968) の「坐る女」という作品でした。金箔、花鳥の日本画的な背景におしゃれな女性が無表情で斜め前を見つめています。
ところで、「ペインターF」って誰のこと?
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小田原のどか氏
近代化のひずみを体現する場で転向/転倒を考える
(小田原氏の略歴と展示作品はこちら)
確か、ロダンのこの作品が横になっていました。
3章 この美術館の可視/不可視のフレームは何か?
布施林太郎氏
歴史生成装置としての美術館建築を問い直す
(布施林太郎氏の略歴と展示作品はこちら)
ル・コルビュジェが設計した国立西洋美術館のコンセプトは、どこまでも拡張できる「無限成長美術館」という構想なのですが、近年の改修により「無限成長」はできないように直されたそうで、この事実を受け、国立西洋美術館の発展が、まるで「運命に従わざるをえないスゴロク」や「中国語を別の規則で読む漢文」のようだと、布施林太郎さんは、この国立西洋美術館自体をひとつの作品としています。
そのあたりは、布施林太郎氏の父親、布施英利氏がYoutubeで詳しく解説しています。(動画15秒、最初から全部見ると約10分)
4章 ここは多種の生/性の場となりうるか?
鷹野隆大氏
芸術作品を人間の「生」の空間内で見つめ直す
(鷹野氏の略歴と展示作品はこちら)
生とか性があいまいな、どっちかよくわからない写真が並んでいます。
そんな中にさりげなく1枚、ゴッホの「バラ」が紛れ込んでいるので、気づかずに通り過ぎる人が多いみたいです。
5章〜6章 〜略〜
7章 未知なる布置をもとめて
辰野登恵子氏 (1950-2014)
過去の芸術作品を超えてゆくためにつづけられた造形実験
(辰野氏の略歴と展示作品はこちら)
辰野氏の作品は「戦後日本絵画史におけるもっとも高度な造形実験」として生まれた抽象画です。辰野氏は、ニューヨーク近代美術館のアンリ・マティスの部屋が好きで、ポール・セザンヌに衝撃を受け、アンディ・ウォホールの影響を受け、同じ女性としてルイーズ・ブルジョワを尊敬していたそうです。
しかし、なぜか、会場でお隣りに展示されていたのはクロード・モネの「睡蓮」でした。確かに、この2つの絵が並ぶ光景は素晴らしくて圧巻ですが、私にとって、2つの作品の関連性は謎です。
もしかして、
まさか、
でも、
大きさを合わせただけ?
辰野氏の作品 291×218cm / モネの作品 200.5×201cm
最後に、
辰野氏はニューヨーク現代美術館のアンリ・マティス作品に「心が洗われる」と言っていたそうで、もし、お隣りに展示された作品がこの「ノートルダムの眺め」だったりしたら、さらに喜ばれたことでしょうね、きっと。
(注:このアンリ・マティスの作品は今回展示されていません)
でもね、白状しておきます、残念ながら、ふじ〜ぴっくはアンリ・マティスの良さが理解できない凡人なのです。
読んでいただき、ありがとうございます。
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