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作品との結びつき

8月の展示会の準備をぼちぼち進めている。と言ってもすでに絵の点数はわりとあるから、あとは当日まで描けるだけ描いて、額装するぐらい。会期中にお客さんが来るのを待ちながら、会場でコーヒーを飲みつつ描いたりするのもいいなあなんて思っている。だから今はあんまり気合いを入れて増やそうとはしていなくて、レコーディングしたり、山梨県まで桃を買いに行ったり、わりと別のこともしている。自分史上一番のんびり進めているプロジェクトだと思う。何でそんなにのんびりしているのかと言うと、作品がもうあるからというのはあるけれど、何かに追いかけられているような、切羽詰まった焦るような感じが全くないからだろう。あの感覚は年齢的なものもあるだろうけど、自分の中にあるこうしなくちゃいけないとか、ああなるべきだみたいな固定概念を全て解除できたおかげで、いい意味で結果がどーでもよくなったのだと思う。当時は自分で自分の存在を認められず、外へ承認を求め続けて、何者かにならなけらばならないと思い込み続けていた。これはSNSの影響による、一種の現代病なのかもしれない。

作品を手放しできるようになったのもある。私は自分のことを作品にしなくなった。今までは自分の人生や感情などの内面についてを曲や絵にすることが多く、自分と作品の結びつきが強くあった。玉結びからの玉結びからの、もう一回玉結んどくかぐらい強かった。このnoteは私についてが多いが、躁鬱人なために定期的に忘却してしまう記憶のメモ代わりにしているから例外。自分以外のことを作品にするようになってからは、作ったのが自分であっても自分のものではないという意識が強く、どんな扱いをされても、どんな感想を持たれても、あなたはそう思うのねで終わる。色んな解釈があって当たり前だからだ。だけど自分のことを作品にしていると、作品が評価されなかったり否定されたりすると、まるで自分に言われているような気持ちになってしまっていることに気がついた。自分と作品がリンクしすぎているのだ。最近ではよく廃墟やゴミなどの、誰にも見向きもされなくなったものたちへスポットライトを当てて作品を作るようになったけれど、その評価に対して一喜一憂しないのは、そもそも私のものではないし、「私はあなたの良さを分かっている」という前提があるからなのだろう。なんなら「私だけがあなたの良さに気づいている」とさえ思っている。この廃墟の良さが何で分からないんだ!と怒ったりはやっぱりしない(笑)これをすり替えてみると、私は私の良さを分かっていると思いながら評価の刃を受け止めつつ、自己を保ち続けるのはかなり難易度が高そうなのが見受けられる。自己肯定感が高すぎくんなら大丈夫なのだろうけど、私はそこまで強くなかった。

自己肯定をする必要がなくなったと同時に、自分のことを作品にする必要もなくなったため、私と作品はいつでも解ける蝶々結びくらいの結びつきになった。だから作品を手放しで見守ることができて、いつどんな評価を与えられても構わないと思っているからのんびりしていられるのだろう。無理して売り込まなきゃ!みたいな気持ちはない。そんなことをしなくても今日もこの街は美しいし、海も山も変わらずそこにいてくれる。だから伝えられるタイミングが来た時に、伝えられることを自然に伝えたいと思っている。

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