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天国に生まれた私たちは

家にいながら好きな時間にドラマや映画を楽しめる。本を読まなくてもYouTubeで誰かが分かりやすく解説してくれている。お店に行かなくてもネットで注文すれば次の日には欲しいものが届く。どんなに遠い世界の果てでも写真や動画で見ることができる。お店の口コミを調べればハズレを引くリスクを下げられる。100円均一でだいたいの生活用品は揃えられる。500円払えばおいしい牛丼を食べられる。スマホを開けばすぐに誰かと繋がり合える。

こうして並べてみると、私たちが今生きている社会はとても満たされている。70年前の日本人からしたら天国のように見えるだろう。でも、同時に喪失感のようなものも覚える。満たされているのだけど、コレジャナイ感。おそらくそう遠くない未来ではAIが発達して、社会はますます便利になっていき、よりスピーディーによりハイクオリティーに色んなことを実現できるようになる。そんな世界で抱く喪失感とは、余白がなくなってしまったことではないかと思った。まるでゲームを始める前から攻略本やネタバレを読んでしまい、一番楽しめる部分を取り上げられてしまった退屈な世界なのかもしれないと。



全ての答えと結果が見える世界

学校では自分のポジションを格付けされる、スクールカーストなどという社会の縮図があった。それは高校デビューみたいに、学校を卒業して人間関係がリセットされない限りほぼ変わらない。だから学校を変えれば、会社を転職すれば、もう一度初めからやり直せそうな希望があった。でも、ネットを通して色んな人の人生を知るようになってからは、フィールドが学校や会社ではなく社会全体になり、その社会の中での自分の格付けがなんとなく把握できるようになってしまったように思う。相手の手持ちのカード数に対して、自分の手持ちのカード数が圧倒的に足りないことを目の当たりにするのだ。誰かの人生をスマホ一つで簡単に覗けるようになる前までは、ここまで自分と誰かを比べることもなかったような気がする。レベルアップをしようとしても、ネットにはすでに誰かの結果報告や攻略方法が上がっている。だから、ワンピースがどこにあるか分かっていて冒険しているような、自分でゲームはやらずに実況だけ見て満足しているような感覚になってしまう。一度見えるようになってしまったものを、見えないようにするのは難しい。


夢という魔法にかけられて

子供の頃に必ず聞かれる、将来の夢はなんですか?という問いかけ。あの瞬間に私たちは、一生解けない魔法にかけられていたように思う。今の私に夢はない。でも後世に向けて何かを伝えたい、残したいものはある。生命体としての本能だろうか。祖母の遺灰を見た時に、死んだら骨しか残らない事実がそこにはあって、でもその血を受け継いだ私という存在が確かに残されていて、自分が生きている間にできるのは後世にバトンを渡すことくらいなのだと知った。どんなものを渡せるかはまだ分からないけれど、私が風景画を描きまくっているのはそこに伝え残したいものがあるからかもしれない。これは夢ではなく、ただそうしていきたいだけなのだ。

国のために命を捧げる日本人の団結力を恐れた国際連合が、日本の教科書や公の場で「志(こころざし)」という言葉を使えないようにして、代わりに与えた言葉が「夢」らしい。夢を与えられて、それを叶えるために競争して、ようやく迎えた天国のような社会の自殺率は、G7ではトップ、諸外国を含めると5位になっている。途中でリセットしてしまいたくなるほど、手持ちのカードで自分の夢を叶えるゲームはハードすぎるのだろう。夢の先には、叶えられた者と叶えられなかった者、つまり勝者と敗者の二択しか用意されていないゴールが待っている。それは果たして本当に目指すべき場所なのかを、もう一度考える必要があるのではないだろうか。


【夢】
・睡眠中に、あたかも現実の経験であるかのように感じる一連の観念や心像。視覚像として現れることが多いが、聴覚・味覚・触覚・運動感覚を伴うこともある。
・将来実現させたいと思っている事柄。
・現実からはなれた空想や楽しい考え。
・心の迷い。
・はかないこと。たよりにならないこと。

goo辞書より引用

【志】
・ある方向を目ざす気持ち。心に思い決めた目的や目標。
・心の持ち方。信念。志操。
・相手のためを思う気持ち。厚意。
・謝意や好意などを表すために贈る金品。
・香典返しや法事の引き出物、僧への布施の包みの表に書く語。
・心を集中すること。
・相手を慕う気持ち。愛情。
・死者の追善供養。

goo辞書より引用


分からないことを知ろうとする喜び

今までは夢を追いかける競争社会だった。それが成立するのは、みんなのゴールが見えない世界までだったのだろう。答えが分かっているのは本当につまらない。人類は分からないことを知ろうとすることで生存確率を上げてきた。だから知ろうとする行為自体が、生きる喜びに繋がっているのではないだろうか。私は描きたい風景を見つけた時に、その風景についてもっと知りたいと感じている。作品として完成させて誰かに見せたいというよりも、トタンの錆をどうやったら表現できるのかが分からなくて楽しい。こうして長々と言葉を連ねているのもそう。自分の頭の中にあるクエスチョンの正体を知りたいのだ。

何かを成し遂げても、その喜びは成し遂げた瞬間に終わってしまうけれど、知ろうとし続けている限りは生きる喜びが続いていく。私は答えのない、ゴールのないことにこそ、生きる糧があると感じている。学校では勝ち負けのゴールだけを提示されて、知ろうとする気持ちは育んでくれないから、なかなかそういうものを見つけるのが難しい体質にはなっているだろう。それでも私たちは、知ろうとすることを諦めてはいけない。何でも手に入る、誰かのゴールが見える、AIが答えをくれる天国で、まだ知ろうとすることができる余白はどこにあるのか。それは頑張らないと見つけられないような、勝負に勝たないと手に入らないような遠い場所ではなく、もっと小さくて身近な場所に潜んでいると思っている。

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