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小さな街の小さな物語たち

もうすぐ冬も終わりだなあと思いながら、ふとスーパーで目に入った大根。そういえば、今シーズンは煮物を作っていない。出汁の染み込んだあの味を想像した途端に食べたくなり、半分に切られた大根を買った。煮物は出来上がるまでに少し時間がかかる。調味料を適当に鍋の中へとぶち込み、ダラダラとYouTubeを見ながら待つ。このダラダラとしている時間が最高に無駄で楽しい。スーパーの惣菜コーナーで大根の煮物を買ってしまえば楽なのだけど、私は楽をしたいわけではない。できるだけ楽しいと思える時間を増やしたいと思っている。退屈な時間が増えると、余計な心配事をする時間が増えてしまう。コスパ・タイパが重視されるようになり、何でも簡略化されるのは便利だと思う一方で、その余った時間をどうするのかはあまり問われない。退屈な時間を増やせても、退屈な時間の使い方が上手でなければ意味を成さないだろう。


新井の鮮魚店へ削り節を買いに行く。このあいだ新聞載ってたね〜と言われ、ちょっと照れくさい。300gくださいと言って、袋パンパンに削り節を詰めてもらう。その中へ顔を突っ込んで息を吸い込みたくなるほどのいい香り。このお店は自分の代で終わりだと店主は言う。海の温度が上がった影響で、だんだん魚が獲れなくなってきているらしい。そういえば干物屋のおじちゃんも、釣りをしていたおじちゃんも同じことを言っていた。いつか日本で獲れた魚を食べられなくなる日がやってくるかもしれない。人間も魚みたいに海を泳いで、簡単に住む場所を変えられたらいいのにね。やっぱり来世は鳥ではなく、魚がいいかもしれない。


描き上がった風景画を持って、ご近所さん宅へと向かう。描いてほしいと言われたその家の中からは海が見えた。私が理想とする家だ。この家に住みたい。窓一面に広がる海の向こう側には山々が連なり、その自然の光から反射された様々な色で部屋の中は包まれていた。なんて日常的で、非現実的なのだろう。光を紙という平面上で、限られた色を使って表現するのはとても難しい。光を描くとはすなわち影を描くことで、その影はただの黒ではなく何色ものグレーが隠れていて…、この話は長くなりそうだから割愛。今の自分の画力で、この空間を絵にすることなんてできるのだろうか。私は興味が湧いた。描けそうなものではなく、描いてみたいと思ったものを描くのが私の絵に対するモチベーションだ。そして仕上がった風景画。なかなかおもしろい挑戦だった。周りをあえて塗らないことによる、余白のメッセージ性についてはまだまだ考える余地が…、この話も長くなりそうだから割愛。ご近所さんも喜んでくれて、今度は額装して持っていく約束をする。手土産に手作りナポリタンをいただき、急に豪華なお昼ご飯になった。


自転車で新井の坂道を下ると、少年たちが遊んでいた。私がこんにちは〜と挨拶すると、かっこいいっすね!と返す少年。自転車のことだろうか。坂道を下ってきた勢いでスピードを緩められなかった私は後ろ向きのまま、ありがとう!と言って手を振った。

駅前に自転車を置いて、散歩へと出かける。今回は一度歩いたことのある場所だけれど、前までは見えなかったものが急に見えたりするから同じ場所でもおもしろい。景色が変わることもあるけれど、ほとんどの場合は自分自身が変わっている。その時々で見たいもの、見たくないものが変わり、自分の都合のいいように世界観は形成されていく。でも感性が鋭い芸術家は自分が見たいものを越えて、別の何かが見えてしまったりする。だからすぐに疲れてしまうのだけど、作品を作り続けるためにはそれと共存しなければならない。でもこの街から見えてしまう何かは、安心してキャッチすることができる。その何かはいつも静かに優しく、ささやくように問いかけてくるからだ。


帰り道、久しぶりに梅屋旅館へと立ち寄る。日帰り温泉に入るためだ。私の描いた風景画が飾られているのを見て、なんだか不思議な気持ちになった。あの絵は確かに自分が描いたものではあるけれど、もう自分のものではない。今まで自分の作品が誰かのものになる瞬間は幾度となく体験したけれど、それは音楽という目に見えない無固形物だった。絵も嫁入りしていくのを見送っただけで、その先は見ていない。初めて嫁ぎ先で元気にやっている姿を目の当たりにして、自分がそこにいなくても完結できているのが嬉しかった。子供が巣立って、立派にやれているのを見て安心する親みたいな感じだろうか。子供いないから知らんけど。

ちょうど風景画を描いた季節と同じだったらしく、今年も満開に咲いている花を見ることができた。女将さんは花が好きらしく、毎回嬉しそうに話してくれる。だからあの時、ふらっと歩いていた私の目にも止まったのかもしれない。女将さんの愛情が、満開の花から溢れ出しているようだった。

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