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表現者と人気者

私が何かを作るのは生命維持に近い。幼少期の頃からずっと何かを作っていて、作っていることが当たり前になっている。それはもはや身体の隅々にまで浸透し、自分の血肉となり、遠ざければやめられるなんて代物ではない。やめられたらどんなに楽だろうかと考えたこともある。創作している人間なら一度は考えたことがあるかもしれない。どんなに売れなくて貧乏でもやめられない、その呪いみたいに纏わりつくものは、全身の血液を入れ替えるぐらいのことをしないと難しいと感じる。作りたいと身体が騒ぐのだ。抑えきれない衝動に駆り立てられて、他のことがどうでもよくなるほど没頭してしまう。この世界で唯一、想像したものを形にする能力を持っている人間は、そのおかげで生存競争に勝ち、文明を発展させ、社会を設立させた。だから創作とは、人間が生き残るために培った生存本能ではないかと思っている。私が生命維持だと感じるのも、もしかしたらそこから来ているのかもしれない。

幼少期に作った絵本


創作活動を続けていくと、職業にしたいと思ったり、たくさんの人に知ってもらいたいと思ったり、あわよくば有名になりたいと思ったりするだろう。私もそうだった。そう、過去形。今の私は、創作活動を続けられるくらいに売れてくれればいいと思っている。まずそれ自体が難しいのだけど(笑)ここで整理しなければならないのが、自分がなりたいのは人気者なのか、表現者なのか、どちらなのかということ。この2つは似て非なるものであり、根本的にやっていることが違う。

人気者とは大衆から評価される分、世間一般の枠の中にはまっていなければならない。その時代の空気を読み、求められるものを平均値よりも高いクオリティーで提供するのが役目。表現者とは周囲の賛同よりも新しさを追求し、その時代に切り込みを入れることで何かを訴えかけていく。自らも一つの枠に収まらず、表現の幅を広げることでまた新たなメッセージを生み出すのが役目。私は後者で、一定で変わらないこと、枠の中にはまっていることが苦手だ。だから永遠にリセットをし続けるようなもので、多数派の賛同を得るなんてお門違いなのだ。人気者になりたければ求められていることを、求められている以上に応える必要がある。けれども創作活動をしていると、よくこの2つがごちゃ混ぜになってしまう。人気者になりたいのに表現者をしていたり、逆もまた然りで、自分が本当はどちらを求めているのかを整理し直した方が創作は上手くいくと感じている。

私は正直、1年後に風景画を描いている自信がない。2年後、3年後のことなんて決められたもんじゃない。それは時に約束ができなくて寂しいなと思うと同時に、創作自体が自分の土台であり、生きていくための支えになっているとも感じる。やっていくことが変わっていっても、生み出したものはこの世界に残っていく。そんな風に考えるのは、私が躁鬱人なのもあるだろう。変わってしまうこと、リセットされることを受け入れていかなければやっていられない。私が作り続けているのは、自分が忘れてしまっても作品だけは残るように、作っていなければならない身体に自らセッティングしたのかもしれない。私は表現者なんて気高いものでも何でもなく、自分のその時の感情をパッケージングしておくためであり、新しさを追求するのは自分が新しくなってしまうからであり、記憶という土台がない代わりに創作で人生に一本の線を引いていくための生命維持にすぎないのだと、この文章を書きながら改めて気づかされたところで終わろうと思う。

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