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視点が変わった世界で見えるもの

水がゴーゴーと音をたてて流れているのが聞こえる。さっきまで降っていた山の水が、川を伝い海の方へ降っていく音だ。昔は川だった上に道路を作ったらしく、私は川が通っている山を少し切り拓いた場所に暮らしている。山と海と川の3点セット。移住を決めた時はそこまで自然に囲まれて暮らしたいわけではなかったのだけど、この地へ来た瞬間にここで暮らしたいと直感で感じたということは、私は無意識に自然を欲していたのだろう。


部屋に差し込む陽の光、BGMのように絶えず聞こえる様々な鳥の鳴き声、海から吹き上げてくる潮風、静かに打ち寄せる波の音、時間と共に移り変わっていく空の色。一日中、自然を全身で浴びる生活を送り、1年以上が過ぎた今、私は私の変化を感じ始めている。気にするものが変わってきているのだ。それを1番に感じたのは、先日名古屋へ帰省した時だった。住宅の隙間から覗く空の色や、公園に生える植物ばかりが目に入ってくる。あの空の色は綺麗だなとか、この花はなんて名前なのかなとか、街中にある自然を見つけてはそれらを愛でる。名古屋に住んでいた時は、全く気にしていなかったことだ。


自然を感じるとはつまり、今を感じるということ。私の時間軸は前よりもずっと「今」になっている。今を感じるようになると不安がなくなるというメリットがある一方で、これからについて全く考えていないせいで世離れしていくというデメリットがあると気がついた。世間の時間軸は常に、これからの未来の方へ向いている。みんなで空が綺麗〜と言っていたら、社会は回っていかない。そんなことをしていたら今でも人類は狩りをしながら、洞窟の中で薪をくべていただろう。でもこれからについて考えながら、古家の錆の色を追求した風景画を描くこともできない。どちらか片方しかできないのだ。作家たちが一人で山に籠る気持ちがなんとなく分かる。だから今後は制作期間と、社会に触れる期間を完全に分けていくことにした。一人で今を感じ取る時間も、社会と繋がり合う時間も両方、大切にしていくために。


家の外で観葉植物の植え替えをしていると、ご近所さんがおはようと挨拶してくれた。桜が咲いているよと、私の家の裏にある山を指差す。山を見上げると満開の桜に、花びらが風に乗ってヒラヒラと舞い落ちていく。2月の河津桜から始まり、色んな桜が咲き続けた伊東の春もそろそろ終わりだ。昔は山の上には畑があったらしく、大きな木に囲まれている桜はもっとちゃんと見えたらしい。定期的に山の木を薪に使ったりしながら、人の暮らしと自然のバランスを上手く保っていたそうだ。増やすでも減らすでもなく、大事なのはバランスなのだと、自然を通して学ぶことは多い。

新井の山にはたくさんの桜が咲いていると知り、見に行ってみた。ちょうど新井神社の上辺りに桜の木が密集していて、ピンクと白と緑に彩られている。白いのはオオシマザクラと言って、伊豆大島や伊豆半島を中心に自生し、葉っぱと花が同時に付く。桜は基本的に花の香りがしないけれども、オオシマザクラは香りがあるのだと先日知り合いに教えてもらった。だから今、春を迎えて新緑が芽吹く緑の山々にはピンクと白が点在し、不思議な色合いになっている。とても美しい景色だ。桜は並木道で見るものだと思っていたから、山にも咲いているとは知らなかった。というか、なんで去年は気づかなかったのだろう。やっぱり気にするものが変わってきているからかな。同じ場所でも視点が変われば見えるものも変わる。社会との繋がり合いも大事にしながら、変わり続けていく今を捉えて感じ取っていきたい。

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