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言葉になる前の音に耳を傾けながら

カーカーカーというカラスの鳴き声で目が覚めた。時計を見ると朝6時前。ここ最近は目覚ましの音ではなく、朝日と共に鳴き始めるカラスの声で起きることが多い。お前はニワトリか!二度寝しようと思っても、スヌーズみたいに何回も繰り返すもんだから目が覚めてしまう。でも、目覚ましの音でびっくりして起きた時のような不快感はない。自然界の音だからかな。伊東に来てからは、自然の音に耳を傾けることが多くなった。特に文章を書いている時は、外から聞こえてくる色んな音を言葉に乗せるように書いていくため、音楽などの作られた音はない方がいい。文章を書くことは、曲を作るのとよく似ている。感じたことをリズミカルに言葉という五線譜の上へ乗せていき、自分が気持ちよくなれるようなグルーヴ感を出していく。だから音楽を流してしまうと、曲を演奏中している最中に別の音楽も鳴っているみたいな状態になってしまうのだろう。

窓の外では、カラスやトンビたちが群れている。その場所には魚市場があるから、たぶん水揚げされた魚を狙っているのだろう。野良猫たちはトタン屋根の上でひなたぼっこをしている。じゃれている時は可愛すぎて目が離せない。葉を落としていた木は芽吹き始め、街は少しづつ緑色に包まれている。

それらの姿を見ていると、それぞれ会話しているのが分かる。人間が独自の言語を獲得したように、鳥や猫や植物それぞれの会話する術もあるのだろう。ただ人間だけは言語が発達しすぎてしまい、世界と交れなくなってしまったように思う。地球環境に適応できないほど弱い生物だったにも関わらず、言語のおかげで文明を築くことができ、今の地位を獲得している。人間だけが環境破壊などの地球のためにならないことをするのは、世界との距離が開き過ぎてしまった弊害だ。言語化する前には感覚があり、他の生き物たちはその感覚のままに生きている。もしも人間も感覚のままに生きられたなら、地球を破壊してまで文明を築くなんて居心地の悪いことはしなかっただろう。


言語は邪魔だと思うことがよくある。言語があるせいで、言語化する前の感覚が分かりづらくなっているからだ。辛いことや嫌なことがあった時に、その場から逃げ出さない生き物は人間だけ。逃げたいという感覚があっても言語に結びつけて、気のせいとか頑張らなくちゃとか言って、その感覚を掻き消してしまい鬱になったりする。私は感じたことを言語化するのが苦手だったため、絵や音楽に投影する術を身につけたのだと思っている。言葉で簡単に伝えることができたら、わざわざ絵や音楽にするなんて回りくどいことはしない。言葉では伝えられない何かがあるからこそ、作りたいと思うのだ。

いやいや、文章にしてめちゃくちゃ言語化しているじゃないか!と思われるかもしれないけれど、私的にはこれは言語化というよりも、感覚をそのまま置いているに近い。言葉にはなってしまっているけれど、なるべく自分の中でこねくり回さず、感じたままに出している。だから当然、誰が読むとか、誰がどう思うかなんて全く考えていない。いかに自分の感覚に従い、開きすぎてしまった世界との距離を縮められるかを探究している。


私たちは感覚に従うことを忘れてしまっている。言葉なんてない方が争いも起きず、命を絶つほど悩むこともないのかもしれない。辛い苦しい悲しいのもっと手前には、隠れている何かがあるのだ。美しい愛しい楽しいもそう。その手前に感じ取った何かがあり、私はそれを作品へと落とし込んでいる。だから、リアルで見る錆びたトタンよりも、私の風景画の錆びたトタンの方が何かを感じ取れる人がいるのもそうだろう。言語化される前の状態を作品へとパッケージングすることで、言語化してしまい分からなくなってしまった人にも届くのだ。私は開きすぎてしまった世界との橋渡しをしているような、感覚から感覚への直通の道を作っているような感じだろうか。

言葉を手放すことはもうできないけれど、それでもなるべく身体の声や、自然界の音に耳を傾けるようにしたい。聞こえなくなってしまった、言葉になる前の音を探して。

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