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芸術に惹きつけられる何かの正体

風景画の新作を描き始めて一週間。描き込み量が増えたため、初期作品に比べると完成までに倍の時間がかかるようになった。幼い頃から模写はわりと得意な方で、だからこそ風景をそのまま描き写すことに対して疑問があり、細かい描写は省略しがちだったのだ。物体や空間にはそれぞれ法則があり、それらを理解していれば描き写すのはさほど難しくない。問題は理解した先にあって、その決められた法則の中からいかに逸脱し、かつ自分の中で辻褄が崩れないようにオリジナル性を発揮させられるかが重要だと思っている。遠近法を使った消失点を置かないのも、定規を使って真っ直ぐな線を引かないのも、私なりの法則からの逸脱を目指した足掻きなのだ。


逸脱すること

何かを始めようとする時、まずは誰かから教わろうとするだろう。早い段階でコツを掴むことができるから、一時的には助かると感じるかもしれない。でも初期段階で教わってしまったものは、自分の中で法則として根深く定着し、後から脱却するのはかなり難しくなる。右利きが定着してしまったら変えられないように、こうすると上手くできるを知ってしまうと思い通りにならないことや、崩れていくことの方が怖くなってしまう。私の中には幼い頃から大人に教わり続けた音楽と、誰にも触れさせなかった絵が同時に共存しているせいか、その2つの違いがよく分かるのだ。誰から見ても綺麗な完成系を目指すと一定の評価は得られても、どこまで行っても一定の評価しか得られないジレンマにぶつかる。さらに一定の評価を得てしまうと、そこから逸脱するのは恐れへと変わる。誰かに教わろうとしないのも、コツが書いてある本を読まないのも、逸脱するのが怖いと感じてしまう自分になるのが怖いのだろう。


目的地があること

一週間描いていたものがようやく完成したというのに、もうすでに次の作品を作りたいと思っている。作り続けることが当たり前となって身体を循環し、作っていること自体が気持ちよくなっているのだ。大きな企画が終わった時に同時に制作の手も止まってしまうのは、作品に目的地があるせいだろう。100mの短距離走なのか、42.195kmのマラソンなのかの違いに似たものがそこにはある。作品を見せる時は常に通過地点のつもりでなればならない。見せ場を目的地にしてしまった場合、評価を気にするがゆえに大衆受けを狙って当たり障りのないものにしたり、評価を受けること自体が作品を作る意義のようになってしまう。作り続けていることが快感になるというのは、それに対して評価をもらえていることではなく、自分の作品から発見がある状態なのだと知った。DTMで40曲レコーディングし続けていた時も、風景画を描き続けている今も、こんなものが出来上がるのか!という驚きや感動がある。それはまるで自分で作ったものではないかのようにさえ思う。これは先ほど書いた、逸脱することへの恐怖心の話にも繋がってくる。変わり続けることを恐れず、新しいものが生み出される瞬間を楽しむことができれば、どんな通過地点がやってこようとも作り続けることができるのだ。


評価されること

評価されることはもちろんモチベーションへと繋がっている。芸術家は常に評価されたい気持ちと、純粋にただ作っていたい気持ちの狭間に立たされる。ただ私の中で確かな結論としてあるのは、評価されてしまったという結果論でしか作品は息をしないということ。私が風景画を描いているのは、たまたま伊東の街を見つけて、たまたま感化される風景画展を見に行く機会があって、たまたま描いてみたら描けて、たまたま古い街並みが好きで、たまたまその絵を買ってくれる人がいただけ。これを狙ってやることはほぼ間違いなくできない。だから、なんかよく分からないけど絵が売れちゃったとしか言いようがないのだ。この過程で少しでも売りたいという気持ちがあったら、東海館や大室山などの観光地を描いていたのかもしれない。売れているものを見た時に人はよく勘違いをする。こうしたら売れるらしいから自分もこうしてみようと。でもそうやって作って出来上がったものは、"何か"が抜け落ちてしまっていると私は感じる。その何かとは、逸脱を恐れず新しいものを生み出そうとする作者の探究心だ。それは何の説明がなくても不思議と作品の節々から感じ取れてしまうもので、なぜか惹きつけられてしまうものの正体だと私は思っている。


この文章もまた、新しい発見への感動でこんなにも長くなってしまった。正直こんな長い文章を一体誰が読むのだろうと思っている。それでもここまで読んでくれるあなたがいるのは、たまたまでしかない。何かが抜け落ちてしまわないように、私はこのたまたま辿り着く先を楽しんでいる。

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