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目的地のない芸術

風景画展の片付けや発送作業なども終わり、また以前のような落ち着いた日々が戻ってきている。スマホのカメラロールに撮りためておいた写真の中から描きたい風景を選び、新作を描き始めた。以前まではなんとも思っていなかった景色でも、時間が経つと全く違う見え方がして面白い。自分には必要がない、興味がないからといって遠ざけてしまうのはきっとよくない。自分が持っている振れ幅を自ら狭めているようなものだ。半年前までは風景画なんて全く興味がなかった私が、今では毎日描きたくなるほどハマっているのだから、自分のことは自分でもよく分かっていないということがよく分かった。

何か大きなイベントが終わる度に燃え尽き症候群になりがちだったけれど、今回はその気配が全くない。かと言って気合いが入っているわけでもなく、描きたい絵が後ろに渋滞しているから、ただそれらを順番に昇華しているような感覚。今の私の目的地は展示会をすることではなく、描き続けることだからなのだろう。作品の目的地がどこに置かれているかは、どう隠しても、例えそれが無意識だとしても、作品の節々から滲み出る。売れるためなのか、やり遂げるためなのか、作りたいだけなのか、狂っているだけなのか。作者の言葉や行動などの分かりやすいものから伝わる時もあるけれど、それらはもっと目に見えない、聞こえない、空気の振動のように伝わってくる。

空気の振動がゆえに、作者の欲求が入れば入るほど負荷や摩擦が加わり、遠くの方には上手く伝わっていかないと感じている。ここで言う欲求とは、作品への想いや愛情などではなく、作品に作品以上の役割を強いることだ。作る過程で作品を売るためにこうやろうとか、万人受けするためにああやろうなどを考えていると、どんどん負荷や摩擦が加わってしまう。それを狙ってできる人間もいるけれど、それこそ才能だし、そもそも狙ってできるなら皆んなもっと簡単に売れている。でも売ることも作ることと同等に大事なのは確かだ。

だから狙ってできる人間ではない凡人は、この作品が何の役に立つのだろうとか、誰に響くのだろうとか、売れなかったらどうしようなどは一切考えずに、まずは作るしかないのだろう。そうしなければ役に立たなかった時、誰にも響かなかった時、売れなかった時にきっと作るのをやめてしまう。作りたい気持ちと、売りたい気持ちは別々にしておかなければならない。芸術なんて所詮は何の役にも立たず、誰にでも理解できるほど分かりやすいものでもなく、売れるために作るものでもない。でもごくたまに伝わってしまうものがあり、心が救われるなんてこともあり、0円にも1億円にもなる不思議な存在。価値が決められていないからこそ、人によって様々な価値がつけられる。この紙切れに何の価値があるのかと問われれば、私は答えることができないし、ただの紙切れだと言われれば否定もできない。それは私が決めることではないからだ。

目的地のある芸術なんてきっとつまらない。だから私は今日もあてもなく、その辺の道端や朽ちた古家を描いていく。

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