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創作することは体の機能の一部

新しい机を買った。机自体を斜めにすることができるため、姿勢が前かがみにならない。先日、腱鞘炎になってしまったため何かを改善しなければと思い、まずは姿勢を直してみることにした。だから作業部屋には、大きな机が2つ並んでいる。1つは音楽やWEB系の作業をするため、今回買った斜めの机は絵を描くためだ。

ふと、高校生の頃の自分を思い出した。絵も描きたいし、音楽もやりたい。けれども進路は一つに絞らなければならない。あの頃の時代は副業なんてなかったし、フリーランスもメジャーではなく、仕事をかけ持つという概念はなかった。結果、絵の道具をしまい、音楽を捨てて、教師の道を選んだのだけど、今ではやりたかったことを全部やるための道具が並んでいる。私の中にどれか一つに絞るという選択肢はもうない。


作りたいものは全部作る。それは決意なんて大層なものではなく、どちらかというと受け入れた、に近い。何度遠ざかろうとしても創作することから逃れられず、何の役にも立っていないのに生み出そうとする自分に嫌気がさしていた時期もある。でも、そもそも逃げようとしたり、役に立たせようとしたりすること自体が間違いなのではないかと思うようになった。創作することは進路や仕事として選ぶものではなく、手足や心臓のように取り外しができないものであり、芸術とは役に立たないものを生み出すことで、役に立たせようとしてしまったらそれは単なる道具なのではないかと。そう考えると、取り外そうとすれば苦しくなるのは当然だし、道具になってしまったらこんなものを作りたかったわけじゃないと捨てたくもなる。

だから私にとって創作することとは、生き続けるための生命維持に必要なものであり、それ以外には何の役にも立たないものを作り続けることなのだ。それ以外の意味は私が見出すのではなく、他者が勝手に価値を決めたり、用途を見つけたりするものだと思っている。


もしも作りたいのに作れなくなった時は、取り外せないのに取り外そうとしているか、自分の生命維持以上に役立たせようとしている可能性がある。私は声の不調に4、5年悩まされた。喘息みたいに咳が止まらない症状が1年間続いたのち、咳が止まっても声帯が変わってしまったのか30分ステージを歌い上げることができなくなり、自主練を重ねていたある日ぷつりと何かが切れてしまった。それは創作することを、自分の活動の道具として役立たせようとしていたからだと今では思っている。心臓は心臓として動くので精一杯で、それ以上何かをすることはできない。私の創作も自分を生かすのに精一杯なのに、それ以上の、それ以外の役目を果たさせようとしていた。

ぷつりと切れてしまった私に再び戻ってきたのは、ただただ創作することだった。美しいなと感じた景色をただ描いて、音にしてみたいと感じた景色をただ曲にする。特別なことは何もしない。心臓が鼓動をするように、肺が呼吸をするように、手足を思い通りに動かすように、ただ創作をする。そうするようになってから、歌いづらさみたいなものは次第に消えていった。死ぬまで作り続けたいのならば、創作の健康管理はしっかりやらなければならない。手足が骨折したら固定して使わないようにしたり、空気が悪い場所で咳き込んでいたら換気したり、場所を移動してみたりするだろう。手足が折れないように鍛えようとか、空気が悪い場所でも空気清浄できる肺に付け替えようとはならない。創作することを気合いや根性で鍛えられるものだとか、取り替えが可能なものだと勘違いしているとおかしくなる。自分に元々備わっている機能の一部分であると認識できた瞬間から、本当の創作活動は始まるのだ。

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