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見えている世界への問いかけ

私にとって絵が描けるのは当たり前なことであり、なぜ描けるのか説明できないものでもある。漫画家になりたかったから描く絵はいつも空想上の人物ばかりで、模写をしていた記憶はほぼない。それでもなぜ今、風景画が描けているのか。それは、これまで脳内で映し出される空想上の映像を現実世界へ持ってくることで鍛えられた画力と、私が現実世界で見えるようになった視点が合わさり、風景画という形になっていると予測している。


絵を描くために必要なのは、単に描く練習だけではない。描くという行為は最後の〆に近く、料理に例えると盛り付け段階にあると思っている。料理本を見ながらその通りに盛り付ければ、誰でもある程度は美味しそうに見せることができるように、絵も練習すればある程度は描けるようになる。でも、どんなに盛り付けが上手くできても肝心な味は素材を選ぶ時点で決まってしまうように、実は描きたいと思ったものがどのように見えているかどうかの時点で、絵の仕上がり方はほぼ決まってしまう。線が真っ直ぐではないとか、はみ出してしまったなどのアウトプットばかりへ着目しがちだけど、この世界をどんな風に捉えているのかというインプットの方が大事だということだ。私は視界へ入ってきた時点で9割が脳内で描き上げられ、実際に紙の上へ描くという行為は最後の微調整な感覚がある。見えていないもの、感じ取れていないものは描くことができない。だから風景画を描いたことがないのに描けたのは、私の世界の捉え方が変わりインプットされるものも変わったことによって、風景画というアウトプットになったのだと思っている。

私は絵を習ったことも、人物以外の描き方の本を読んだこともないから何を教わるのかは知らないけれど、こういう風に描けばいいという教え方は少し違う気がしている。「どういう風に見えているのか」を問うべきではないだろうか。描いたものはその人にとって、世界がそういう風に見えているからだ。線が曲がっていて下手くそだという指摘は、実際に線が曲がって見えているその人自身の世界の否定になる。さっきも言ったように見えていないもの、感じ取れていないものは描くことができない。丸が歪んでいればその人にとっての丸はその歪んだ丸だし、花が青く塗られていれば、周りが紫に見えていてもその人には青く見えているわけだ。だから描いたものに対してではなく、見えているものに対しての問いかけが必要だと思っている。

私は常に見えている世界への問いかけをし続けている。なぜこう見えるのか、そこには本当に1色しかないのか、裏表はないのか。世界を多角的に観察し、何層にも積み重なっているレイヤーをかき分けながら、その時の自分がどこの層から見ているのかを考える。そうやって俯瞰しなければ、全体像を把握することができない。私はドライだとか、ここにいるようでいないなどと言われることがあるのだけど、それはおそらく私がこの世界に対しての視点が引きすぎているからだろう。輪郭を捉えるためには、全体が見渡せる少し遠い場所からでなければならない。細かい部分を描くために近寄ったりもするけれど、基本的にこの世界にはいないような感覚がある。ここではない遠い場所から眺めていて、そこから見えたものを作品にしているから現実世界とのズレが生じるのだろう。そのズレは皆んなそれぞれ持っていたはずだけど、この絵は下手くそだと自分の世界を否定されることによって閉ざされていってしまうのかもしれない。私はその世界を大人になるまで隠し続けたおかげで、子供の頃のままの状態を保持している。子供の頃に見えていたものがおかしいのではない。大人になってから見えなくなってしまったものが多すぎるのだ。だから大人は、子供が描くものを絶対に否定してはいけないと思う。


今、見えているものだけが真実ではない。人はそれらを見たいように見ようとする。だからいつも疑いを持って、色んな角度や距離から、時には目を閉じた内側から覗き、何が見えてくるのか、何が見えてしまうのかを探し続ける。この世界は3次元ではとても説明しきれないほどに広くて深い。見えたものをそのまま捉えるだけではもったいない。世界はもっともっと面白くできている。

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