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ゴールのない芸術作品を目指して

藤森愛として活動14年目を迎えた(昨年は間違えて12年目と言ってたみたい)。今でもこうして藤森愛という看板を出して活動できているのは、たくさんの支えがあるからなのだと年月を重ねるごとに強く、深く感じる。

芸術ごとを続けていくのは難しい。なんでもそうだろうけれど、特に芸術は生きていくために必要なものとしての優先順位は圧倒的に低い。生きていくためには絶対に必要だ!という人もいるかもしれないけれど、芸術は安心安全な生活の上でしか成り立たないものだと私は思っている。だから今、自分が芸術を生業にできているこの世界には感謝でしかない。芸術なんてあってもなくてもいいものを続けられているのは、本当にすごいことなのだ。そんな世界に私は、作品を作り続けることで恩返しをしていきたい。


そう思うようになったのは、活動13年目に芸術を自分から解放したからなのだろう。私は自分の欲望を満たすためだけに作品を作るのをやめた。それは作っても作っても、一向に満たされる気配がなかったからだ。いや、一時的に満たされたけれど、すぐに溶けてなくなってしまっていた。だから自分の欲望は作品を介してではなく、自分だけで解決できるようになろうと。この一年間、私は随分とわがままな生活を送っていたと思う。海の側で暮らしたいという夢を叶えて、散歩したくなったら出かけて、食べたいご飯を作って、鬱が来たら寝込んで、可愛い観葉植物を見つけたらお迎えして。自分で満たせる欲望は我慢しないですぐに満たす。そうしていくうちに私はご機嫌になったらしく、作品へ欲望をぶつけることもなくなっていた。なんだ、こんなに簡単なことだったんだと思った。私はずっと、私を後回しにしてしまっていたらしい。

そうして自分の欲望から解放された芸術は、目的や理由がなくても軽やかに進み始めた。作りたいものがどんどん溢れて止まらないのは、縛るつけるものが何もないからだろう。ただ言葉にしてみたかったから、ただ音にしてみたかったから、ただ絵にしてみたかったから。何かのためではなく、何のためでもないものを作っていく。作品が何かになるのは、作ったあとに受け手側が何かを感じ取った時でいい。作者が役割を与えてしまったらそれは単なる道具であり、芸術ではないと思うようになった。

目的や理由がなくて、ファンの皆さまを不安にさせてしまっているかもしれないけれど、一つ安心してほしいのは、私は死ぬまで作るのをやめないということ。むしろ目的や理由がある方が、それが失われた時にどこを目指せばいいのかが分からなくなってしまう。何事もなく生きていくことができれば、寿命まであと50年くらいある。長い道のりだ。いちいちゴールを決めていたら疲れてしまう。歯磨きをするように、息をするように、ただ作っていく。何かのために作るのをやめたことで、どこも目指さないからこそ続けられるのだと知れた活動13年目だった。


先日、実家の掃除を手伝っていた時、おじいちゃんが手書きした家の設計図が出てきた。2階建て(4LDK)の家をたった一人で建てたというにわかに信じられない話ではあったけれど、細かく書き込まれた設計図と、設計者・工事施行者・現場管理者がオールおじいちゃんの名前になっている建築工事看板がなによりの証拠だった。こんなものが残っているのは、自分で作った人くらいだろう。そうなったのは戦後でお金がなかったかららしいけど、だからと言って、30年以上かけて一人で作ろう!とはならない(笑)あの家は、おじいちゃんが生涯かけて作ったゴールのない芸術作品だったのではないかと私は勝手に解釈している。最後まで完成しなかったあの家は、私に“作るとは何か”を伝えて、もうすぐ役目を終える。どんなにすごいものを作っても大衆には知られないまま、跡形もなく消えてしまうことだってある。でもそれでいいはずなのだ。勝手に解釈した私の中には確かに、受け継がれているものがあるから。

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