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現代社会での自分なりの幸福論について考えてみる

観葉植物たちが無事に冬を越えられるかを心配している。ベンジャミンは部屋が寒すぎたのか、半分ほど葉を落としてしまった。パキラは冬眠させているからあまり変わっていない。他の植物たちは冬の日差しでもニョキニョキと成長し、新芽を生やしたものもある。植物を通してたくさんのことを学んだ。水をあげるタイミング、日差しとの距離、土に混ぜる肥料の種類、植え替えの時期など、それぞれの植物に合わせて環境を用意する必要がある。調べた通りにやったとしても、個体差があるから上手くいかない時もある。スクスクと育ってくれている時は本当に嬉しいものだ。だから私にとっての観葉植物は観賞しているというよりも、育成しているのが楽しい育葉植物といった方が正しいかもしれない。家庭用ロボットのLOVOTを2週間預かった時も感じたけれど、自分が面倒を見なければならない存在はむしろ心の支えになったりする。それは、自分が必要とされることで存在価値を体現できるからなのだろう。


現代社会では、存在価値や幸せを感じづらくなっていると私は思う。これが幸せというものです!これが価値ある人間です!と提示されていた社会ではそこを目指せばよかったし、周りもそれを獲得して幸せそうにしていたから分かりやすかった。でも現代では多様性が広がり、個人を尊重するようになったため定義も曖昧になり、自分で幸せの形や価値観を決めなければならなくなった。周りに合わせることが大事な日本人にとって、自分で決めていいことの方が不自由だと感じてしまうかもしれない。私はこれで合っていますか?と答えを照らし合わせる基準はもうない。大学を卒業するまでの約16年間、正解か不正解を求め続けてきた体質をそう簡単に変えられるとも思えない。私はその正解か不正解を求める世界から離れて久しいけれども、その呪縛のようなものを解除するにはかなりの時間を要した。

この世界には答えが出ないものがほとんどであり、そのふわふわした状態は死ぬまで一生続いていくのを分かっていないと、これが幸せの正解だ!と決めつけ、その枠へ自分が当てはまれなかった時に不幸だと感じてしまう。SNSでみんながそれぞれの基準を振りかざすようになった今、焦って自分の幸せの形を決めようとしたり、何者かになろうと型にはめて変形させたりするのは違うと私は思っている。


そんな答えのない曖昧な現代社会で、毎日ハッピーな生活を送っている私が大切にしていることは2つある。一つは結果を気にしない長期的な何かをすること。もう一つは他人を介さずに幸せを感じられる何かをたくさん持つこと。

まず、結果を気にしない長期的な何かをする理由は、短期的に得た快楽では失われるスピードが早く非効率だからだ。例えば、ご飯は食べるだけだと一瞬で終わってしまうけれど、作ろうとすれば買い出しから調理まで色んな時間がかかり、出来上がったものを食べなくても満足している場合が多い。私は作ったお菓子のほとんどを自分で食べることなく誰かにあげている。脳は短期的な報酬に慣れてしまうと、長期的な報酬を待てなくなり、短期的な報酬ばかりを欲しがるようになってしまうらしい。一度に長く報酬を感じられる方が、新しい報酬を探してこなくていいから楽ちんだ。結果を気にしないものにするのも、長期的に続けるための対策。

他人を介さずに幸せを感じられる何かをたくさん持つ理由は、自分一人だけで確立させる方が簡単で、ブレないからだ。誰かに喜んでもらうための作品を作っていると、その誰かが喜んでくれないと成立しなくなってしまう。誰かを見つけてくるのも、喜んでもらうのも、なかなかにハードルが高い。そんな難しいことばかりやっていたら嫌にもなるし、いつまで経っても幸せになれない。だからグッとハードルを低くして、自分一人だけが喜んでくれることをする。たくさん持つのは、どれかができなくなっても他へ逃げられるようにするため。心の避難所は各所にあった方が安全だ。

今の社会は、結果が気になる短期的なことであり、他人を介さなければ幸せを感じられないことばかりしているように見える。大事なのはバランスで、長期的に安心できることをしながらチャレンジングなことをしてみたり、自分一人だけでも楽しいけれど誰かと共有してみたりする。どちらか一方へ偏ってしまうと、基準に当てはめようとしたり、大量に欲しがったりしてしまうのだろう。私もまだまだブレやすく、流されそうになる時がある。けれども、どれだけ混沌とした世の中が覆い被さってきたとしても、生きやすくなるための探究心だけは見失わないようにしたい。

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