見出し画像

創作とは何かと対話すること

私は一人でいることを全く苦に感じない。道端でご近所さんと世間話したり、干物屋のおじちゃんと話したりで充分満足できる。だから家族も友達もいない街へ移住できたのだろうけど。一人っ子なこともあり、一人の時間を過ごすサバイバル術みたいなものを幼少期のうちに会得したらしく、むしろ友達付き合いは苦手な方だった。ツアーミュージシャンになってからも旅の道中は一人だったし、どこかへ属したいという気持ちも全くない。一人でいることは私にとって、最高に充実した時間だ。

でも、時折り不安になる。一人でいるのが不安になるのではなく、一人でいるのが平気な自分自身に不安になるのだ。社会的動物である人間は、一人で生きていくようにはできていない。一人になると生命の危機を感じて、寂しさを苦しさへと変えて警報を鳴らす。その警報装置が私には見当たらない。幼少期に壊してしまったのだろうか。でもこの充実ぶりからすると、壊れているようにも思えない。私は本当に一人なのだろうか?


ふと思ったのは、私は常に何かと対話をしているということ。幽霊的なものではない(笑)何を見ていても、どこにいても、頭の中ではありとあらゆるものとの対話が繰り広げられる。それは言葉にすらならないほどのスピードだ。いわゆるチャッター(頭の中で自分自身と会話をする独り言のこと)なのだろうけど、私的には何かと対話をしている感覚に近い。その対象は生物、無生物、固形物、無固形物、全く関係ない。匂いや温度、空気との対話もする。創作とは何かを作ることだとずっと思っていたけれど、伊東へ来てからはそうではないと気がついた。創作とは、何かと対話することなのだと。

風景画を描く時、ただ対象物を写し取るだけでは描けない。まあ描けはするけど表面上だけで、中身はスカスカになってしまう。線との対話、色彩との対話、光と影との対話、空気感との対話。描くものは平面でも、紙の上では立体的な話をしている。音楽では曲作りのテーマにしているもの、例えば海との対話があるし、文章は言葉になる前に感じ取っているものとの対話がある。文章が長くなっているのも、風景画がだんだん細かくなっているのも、対話が増えているからなのだろう。

だから創作をしている時も、一人でいる時も、私は一人ではないのだ。たくさんの存在たちと常に対話をしている。人間としか対話ができなければ、それは私も寂しいかもしれない。人間との対話は分かりやすい。言葉を放てば、言葉で返ってくるからだ。人間以外は違う。話しかけてももちろん返ってこないし、投げっぱなしのボールがコロコロと地面を転がって遠ざかっていくだけの虚しい状態だ。この時、人間だけが言葉を使って対話していることに気がつく。人間以外の存在は、言葉になる前の何かで対話をしている。植物が虫に食べられそうになると何かを伝達させ、それを受信した鳥が虫を食べに来てくれるらしい。匂いで誘ったり、色で近づかせないようにしたり、音で威嚇したり、光で感知したり、私たち人間が知らないところで言葉以外の何かが働き合っている。

私はそれらとできるだけ近づき、対話をしている。その時間はとても純粋で、洗練されていて、心地がいい。だから創作では、言葉にする時よりも、絵にする時よりも、音にする時よりも、もっとずっと手前の方で何と対話しているかの方が大事だと感じている。この文章もまた、何かと対話した果てなのだ。

この記事が参加している募集

頂いたサポートは活動のために大切に使わせていただきます。そしてまた新しい何かをお届けします!