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ギャル男雑誌から週刊誌へ…編集者・ライターの道「意味のある遠回り」

 それは道端に転がっていた。きっと普段ならば見て見ぬふりをして「無かった」ことにしていたはずだ。目を逸らしたくなるような現実が、向こうから「カモン!」と言っている。

「ヘイ、カモン! ヘイ!ヘイ!」

 その人は数メートル先からこちらを見ており、目が合ってしまった。どうやら物乞いのようだが、彼には足がなかった。私は、多くの人がそうしているように、まるで何事も無かったかのように、素通りしようと思った。すると、彼が目を大きく見開きながら再び「カモン!」と言って、明らかに“私”に対して手招きをしたのである

 恐る恐る近づいていく。褐色の肌をした男性は、どうやら英語が喋れるらしかった。私が首からぶら下げていた一眼レフカメラを指差しながら、強い口調で「撮れ」と言う。

「この国は貧しい。足を失ってから仕事も無いんだ。厳しい現実を世の中に伝えてくれないか?

 今から20年近く前、当時の私は、たんなる大学生の旅行者に過ぎなかった。決してジャーナリストなどではない。

 重度の身体障害者である彼の写真を、本当に撮っていいものだろうか……。躊躇する私に対して、彼は真剣な眼差しで「撮れ」と主張する。震える指先を抑え、なんとかシャッターを切った。

 * * *

現在、Web編集者・ライターとして活動する筆者・藤井厚年(撮影/若狭健太郎)

 現在の自分と照らし合わせてみると、この体験が原点となっているのは間違いない。私は雑誌『週刊SPA!』のニュースサイトである『日刊SPA!』の編集者として働いており、一見すると、ここまで一本の筋を通してきたようにも見える。

 しかし実際には、文字通り“紆余曲折”あった。ずいぶんと寄り道や遠回りをしたと思う。

 大学卒業後は、新卒で金融機関に就職。もしも続けていたら人生安泰だったのかもしれない。が、わずか1年で辞めて出版業界に転職、渋谷系ファッション雑誌『men’s egg』編集部員に。そこから30歳手前でフリーランスとして活動するようになり、おおっぴらには書けないような経験を色々と経て今に至る……。そんなアラフォーおじさん。

 何度も“自分はなぜここにいるのだろうか?”と悩みながらも進んできた。「選択」の連続である。夢や目標を叶えるためには、ゴールから逆算して行動する……なんてよく言われているが、誰もが要領良く最短距離を走れるわけではない。

 自分はむしろ遠回りをしてもいい。ただし、それが“意味”のあるものにしたいと思っている。

「編集者」や「記者」は憧れの存在だった

 出版業界は斜陽産業と言われて久しい。だが、私が就職活動をしていた頃は、“編集者”や“記者”(ライター)は、まだまだ憧れの存在だった。

 ファッション雑誌や書籍が好きで、もともと“人に何かを伝える仕事”に憧れを抱いていた私は、新卒採用を行っている出版社にひと通り応募したが、見事に全敗。エントリーシートの時点で足切りされてしまい、面接にも辿り着けなかった。呆気なさすぎる……。

 投げやりにもなるなかで、なんとなく受けた地元の金融機関から内定をもらった。果たして、どうするべきなのか。

学生時代や20代の頃は東南アジアをよく旅していた

 大学時代、バックパッカー旅行が趣味だった私は、答えが見つからず、モヤモヤした思いを抱えたまま、最後の夏休みを利用して東南アジアへ向かった。そして、各国を放浪するなかで冒頭の出来事に遭遇したのだ。思いがけず、私の胸には“使命感”のようなものが湧き上がってきていた。

 やっぱり、“人に何かを伝える仕事”がしたい。

 また、旅の途中で有名雑誌を中心に仕事をするプロのカメラマンにも出会い、約2週間にわたって寝食をともにしたことも大きかった。出版業界で働きたいという気持ちをより一層強くさせた。

 でも――。

 帰国直後には、金融機関の内定式が待っている。このタイミングで辞退するなんてありえないだろう。それに、大学まで出させてくれた両親はもちろん、気にかけてくれていた親族をひとまず安心させたかった。(今思えば、最初から辞めるつもりで就職するなんて不義理にも程があるが)私は金融機関で働きながら、なんとか出版業界に転職する道を模索しようと考えたのだ。

一生安泰でも「このままでは夢は叶わない…」

※写真はイメージです

 地元では知られた金融機関で、周囲からは“一生安泰”と言われる就職先。定年退職までのライフプランが見える。

 将来か……。

 就職して数ヶ月後。新人として覚えることだらけで、数字目標(いわゆる“ノルマ”)とプレッシャーもそこそこキツい。日々の業務に忙殺されるなかで、憧れの出版業界に向かって1歩も前進していない自分にイライラしていた。ひとりになりたくて、昼休憩の時間にもかかわらず、外回りに出たっきり支店には戻らなかった日がある。コンビニの駐車場に営業車を止め、全開までシートを倒して寝転んだ。

 金融機関の仕事では、顧客のもとでライフプランに関する相談を受ける機会も多かった。しかし、そこで顧客に対してアレコレと言いながらも自分自身に置き換えて考えると胸が苦しくなった。

 “自分はなぜここにいるのだろうか?”という思いが込み上げてくる。もともと好きだったファッション雑誌の編集者、あるいは週刊誌で記者やジャーナリストに……。このままでは、その夢は叶わないだろう。とにかく行動するしかない。

SNSが無かった時代のメディアアプローチ

 褌を締め直したはいいが、中途で応募するにせよ、狭き門である。“基礎がある”ほうが採用で有利にはたらくはず。そんなとき、ちょうどファッション系で知られるキャリアスクールになぜか「雑誌編集者」コースが新設され、文章やカメラ、ジャーナリズムの基礎なども学べると知った。そこで、平日は金融機関で働きながら、土日は受講してみることにしたのだ。同時に転職活動を進めなければならない。

 今でこそ、求人情報はインターネットでさらっと検索できるし、SNSで出版社に勤める編集者を見つけて募集の状況を聞くことも簡単だ。しかし、当時はそうもいかなかった。出版社のホームページもろくに整備されておらず、編集部のSNS公式アカウントなど存在しない。

 わからないならば、「電話」で聞いてみるしかない

 勇気を出していくつかの編集部にかけてみたが、あまり取り合ってはもらえなかった。当然、編集者は忙しいのだ。それならば、「直筆の手紙」を書いて、履歴書といっしょに郵送してみたらどうだろうか。タイミングが良ければ、見てもらえるかもしれない……。

 この作戦が功を奏し、いろんな週刊誌の編集長やデスク(副編集長)クラスに会って話す機会をもらえた。しかし、「夜討ち朝駆け、24時間張り込みも上等です!」と口では言っても、実際には何がなんでも自分の正義感を貫き通すというほどの強い気概は持ち合わせていないことを見透かされていたのかもしれない。面接の感触は悪くなかったものの、結局は雇ってもらえなかった。

ギャル男雑誌『men's egg』編集部員に

ほとんどのバックナンバーは実家の倉庫に保管してあるが、なぜか手元に置いてあった『egg』『men's egg』(ともに大洋図書)の増刊号

 翌年の春、私は念願の出版業界にいた。ただし、週刊誌の記者やジャーナリストなどという硬派なジャンルではなく、チャラくてナンボの“ギャル男”雑誌として知られる『men’s egg』編集部員。そう、あのメンエグである。

 曲がりなりにも堅めの金融機関に勤めて週刊誌を目指していた人間が、なぜ真逆のメンエグに……⁉︎

 その理由は良い意味で誌面が“なんでもアリ”だったことだ。いちおう、建前上は「ファッション雑誌」にもかかわらず、カルチャーはもちろん、夜遊び、車、ヤンキー、女のコ事情、ディープなアングラスポットの潜入、時には政治・経済まで……どんなネタだろうが、読者の興味の範囲に落とし込めれば、企画として実現の可能性があると思った。

 当時の『egg』編集長(渋谷編集局長)宛に手紙を出した数日後、「じゃあ来てみなよ」という電話があった。そして、総務から正式に面接の連絡を受けて、編集部を訪れた数日後にはそこで働き始めているのだから、まさに急展開だった。

“時が止まればいいのに”と思った

 実際に入社してみると、とくに入稿・校了時の徹夜作業はめちゃくちゃツラかった。通巻100号記念の際には、雑誌のページ数が2倍になる(仕事量も2倍になる)というサプライズもあって、1か月間で2回ぐらいしか家に帰れなかった。あまりの多忙にいろいろヤラかして編集長や先輩に怒られまくっていたが、それでもこれが“天職”だと思った

 好きなことを存分にやってお金(給料)がもらえる。コンプラなどもそこまで気にせず、まあまあの予算を使いながら自由な発想でモノづくりができた(自分は、出版業界の“古き良き時代”を経験できた最後の世代かもしれない)。

 憧れの業界で“第2の青春”を謳歌している気分。深夜の編集部で作業中の息抜きに筋トレやスパーリングをしたり、AV談義に花を咲かせたり……。デザイナーさんからページのレイアウトがあがってくるまでの待ち時間で、しれっと道玄坂のCLUBまで飲みに行ってしまうことさえあった。

 何日も風呂に入っておらず、意識が朦朧として昼なのか夜なのか判然としない。いつものように灰皿のまわりを囲んで、誰かとくだらない話で盛り上がっていると、なぜだかわからないが、涙が出そうになった。ふと、“時が止まればいいのに”と思った。いつか楽しい日々にも終わりがくる。そんな予感があった。

自分はなぜここにいるのだろうか?

最近は渋谷に行っても迷子になる

 雑誌『men’s egg』は2013年11月号で休刊。その少し前、すでに私はフリーランスの編集者・ライターとして歩み始めていた。

 30代が見えてくるなかで、改めて“自分はなぜここにいるのだろうか?”と考え直した。学生時代に東南アジアの路上で託されてしまった“彼の想い”が再びよみがえってくる。せっかくメディアの仕事をしているのならば……。

 約5年近くの在籍期間で雑誌の目玉といえる巻頭ファッション企画からメンエグ名物のギャルやエロ特集、巻末の読者投稿ページまで、まさに“何でもアリ”の環境でひと通りの経験をさせてもらえたことは大きな自信となった。同時に、外の世界でどれだけ通用するのか、試してみたくもなったのだ。あらゆるジャンルのストリートファッション雑誌やサブカル・アングラ系の書籍やムック、実話誌などで寝る間も惜しんで働いた。

 そして、奇しくも雑誌の休刊ラッシュに巻き込まれ、Web中心の仕事に切り替える必要性にも迫られるなかで『日刊SPA!』編集部にたどり着いた。

『週刊SPA!』は、私がメンエグの編集部員としてあくせくと働くなかで、すっかり週刊誌に対する思いを忘れかけていた頃にも唯一、読むことがあった。そんな週刊誌が母体で紙とWebの半々。扱っているジャンルは幅広く、ジャーナリズムを追求した企画もあれば、芸能人などのエンタメ系、私がこれまでに通ってきた“なんでもアリ”に近いような企画もある。また、一般人が抱えるありふれた悩みに寄り添って、その声を記事化しているのも魅力だった

 中年の危機、転職、早期退職、離婚、不倫、貧困・借金、老後、親ガチャ、おとなの発達障害、子供部屋おじさん……。

 そこにあるはずの問題も他人からは見えない。意識して見ようとしなければ、無いものと同じなのである。そういった物事にスポットライトを当てて、世の中に知ってもらうことには一定の意味があるはず――。

 業務委託スタッフとして半フリーランスで携わるようになった頃から数えると、現在まで約7年ぐらいの月日が経つ。

 正直、胸を張って「ジャーナリストです」なんて口が裂けても言えないが、自分で取材・執筆した記事、あるいは編集を担当した記事が、Yahoo!ニュースやLINEニュース、livedoorニュースなどのプラットフォームでトップに掲載された経験も少なくない。

 ただ、無限に広がり、深化(進化)していくネットの海で、“やりきった”という思いは全くなく、まだまだ力不足を痛感する。終わりが見えない。

 これから私が歩んでいく40代、50代、60代……おそらく、その時々の状況に左右されつつ何度も選択する機会があるのだろう。それが正しいのか、間違っているのか。わかるはずもない。

 結局は、いつかその選択に「“意味”があった」と言えるように、人生の伏線を回収していくしかないと思っている。

<文/藤井厚年>

#あの選択をしたから

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